悲しい顔のピエロ

 

「泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時があり」(コヘレト3・4)。
悲しむことと踊ることを完全に分けることは出来ません。
一つが、必ずしももう一方に続くわけではありません。
実際には二つの時が一つの時となるかもしれません。
一方が終わりもう一方が始まる、はっきりとした時点が示されることなく、
悲しみが喜びに変わり、
喜びが悲しみに変わるかもしれないのです。
しばしば、
悲しみのための空間が踊りによって作り出される一方で、
その踊りの振り付けは悲しみによって生み出されてゆきます。
私たちは親友を失って涙にくれながら、
味わったことのない喜びを見出したりします。
また成功を祝う喜びの談笑のただ中にあって、深い悲しみに気づくことがあります。
悲しむことと踊ること、悲嘆と笑い、悲しみと喜び。
これらは、
悲しい顔のピエロと嬉しそうな顔のピエロが一人であるように一つのものです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.126)

 

すぐにギリヤーク尼ヶ崎さんの踊りが思い浮かんだ。
たしか六角橋商店街の路上、
はじめてギリヤークさんの踊りを目の当たりにしたとき、ぶっ飛んだ。
カセットテープに吹き込んだ三味線の音に合わせて
「鬼の踊り」が始まる。
あのころは、
まだ心臓にペースメーカーが入っていなかったかもしれません。
踊りの最後の方で、
バケツに水を汲み、アタマから水をかぶる。
鬼気迫る。
なんという踊りか。
知らぬ間に、見ていたわたしの頬を涙が伝い、笑いがこみあげてきて、
ギリヤーク!! 拍手を送った。
「鬼の踊り」はやがて「魂の踊り」となり祈りとなる。

 

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