人間の心は

 

すべてのことを記すのは長すぎるが、さまざまのことが起きる中に、
アブラハムはほかならぬ最愛の子イサクをささげる
という試みに会わされることになる。
それは彼の信仰に満ちた従順が良しと認められ、
それが神にではなく、
世の人々に知られるためであった。
それゆえ試みはすべて非難されるべきではなく、
それによって良しと認められるような試みは喜ぶべきものですらある。
たいていの場合、
人間の心は、
自分自身には知られない。
ただ、
その力を何らかの仕方で自分自身に問いただす試みに会って、
言葉ではなく
実際の行ないによって答える時にわかるのである。
そのとき、
人の心が神の恵みを認めるなら、
心は敬虔になり、
恩恵の確かさに堅く立って、空しい誇りにふくれ上がることはない。
確かにアブラハムは、
神が人間の犠牲を喜ばれるとは決して信じなかった。
しかし鳴りひびく神の命令に対しては、
人間は服従すべきであって、
言い争うべきではない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、p.173)

 

大学に入学して、いくつかの授業をとったなかに、
英語講読というものがあり、
担当は、車田先生。
最初の授業だったと記憶しているが、
日曜日に自宅で聖書を読む集いを行っているから、
興味のある方はどうぞ、
という案内があった。
高校生になってから怒濤のように始まった読書生活
にあって、
おもしろく読んだ本の核には聖書があると見定めていたので、
日曜日にいそいそと、
車田先生のご自宅を訪問した。
聖書を読み、
参加した学生たちが自由に発言する。
あれは、初めての訪問だったか、何度目かのときだったか。
聖書のどの箇所を読み、
どういう発言がなされ、わたしが何を話したか、
すっかり忘れてしまったけれど、
わたしの発言の後に、
先生が、
三浦さんは、経験を通して聖書を学んでいかれる人なんでしょうね、
という趣旨の話をされた。
正確なことばを忘れてしまったが、
わたしの記憶では、そういうことになっている。
先生のそのことばを、
当時の私は、
どちらかといえば、
わたしに対する批判が含まれていると捉えてしまい、
先生の集いに来て聖書を勉強しても、
あまり意味がないと、やんわり諭された気がし、
短気なわたしは、
そうか。
だったらいいや。
それを最後に、わたしは、その集いに参加しなくなった。
しかし、
そのことが、
その後、幾度も思い出され、いままた記憶の底から浮上してくる。
先生の言葉の主旨、意図は、何だったのか。
確かめたい。
先生は今どうされているだろう。
インターネットで検索しても、
これがあの先生だ、と思われる方はヒットしない。
けれど、
車田という姓で調べると、
1887年に生まれた牧師で車田秋次という方がおられる。1987年に亡くなっている。
車田という姓は、それほど多くなく、
キリスト教つながりということで、
わたしが教わった車田先生と、牧師の車田秋次とは、
なにか関係がありはしないか。
車田先生に言われた言葉を読み解くヒントがあるかもしれない。
『車田秋次全集』全7冊が古書で出ているのを知ったので、
さっそく注文した。
『神の国』再読は、
意外なところへわたしを引いていくようだ。

 

・年賀状思ひ出せずの名を睨む  野衾