歴史への光源

 

真の歴史的時間とはけっして単なる出来事の時間ではない。
むしろ歴史的時間についての特有の意識は、
考察という光源からに劣らず
意欲とその遂行という光源からも放射されてくるのである。
ここでは
観想という契機が活動という契機と解きがたく絡みあっている。
つまり、
観想は活動によって、
そして活動は観想によって身を養っているのだ。
(カッシーラー[著]/木田元・村岡晋一[訳]『シンボル形式の哲学 三』
岩波文庫、1994年、p351)

 

個人の歴史も集団の歴史もカッシーラーのいうとおり、
観想の営みだけでなく、
意欲とその遂行の光源から光を当てることにより
ふかくその意味を開示するものなのだろう。

 

・町外れ社をつつむ蟬しぐれ  野衾