ふしぎな書物

 

まいにち少しずつ読む本だとか、一日一ページずつ読む本について、
思ったり考えたことを書いてきましたが、
そういうふうな読み方が身についたきっかけは『聖書』だと、このごろ思います。
十代の終りからですから半世紀に近く、
くりかえし『聖書』を読んできて、
いまも飽きず読んでいます。
とちゅうサボったときもありましたが、
このごろはまた、たとえば、ふるさとに帰ることにも似て、
しずかに読み返しています。
文語訳をふくめ、
翻訳もいろいろですので、
通読としては、七回目に入りました。
通読でなく、章とか節とか、
意識して読んだ文章は、何十回に及ぶものもあるでしょう。
それぐらいくり返し読んでいるのに、
いや、
くり返し読んでいるからこその不思議に打たれるというのか、
そういうことが、
たびたび起こります。
このごろこころが墜ちているなぁと感じた土曜日の朝、
目にしたことばが、
「マタイによる福音書」の11章28節。

 

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。

 

なぜこのことばなんだろうと思いました。
きのうでなく、きょうという日に。
偶然といえば偶然。
だけど、
こういう感慨にとらわれたことが初めて
ではありません。
恩師宮田光雄先生の書かれた
『御言葉はわたしの道の光 ローズンゲン物語』(新教出版社、1998年)
を読むと、
そういう感慨をもった人がわたしだけでないことを
教えてもらい、力がわいてきます。
『聖書』は実に、ふしぎな書物です。

 

・五月雨やそろうり園のハシビロコウ  野衾

 

ふたつの「ことば」

 

映画『男はつらいよ』の第一作で、
寅さんと、さくらと結婚することになる博との喧嘩の場面があります。
ばんばん言い合いをしているとき、
「ざま見ろぃ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。 」
と寅さんが言い放つ。
耳にのこることばです。
「理屈なんかじゃ動かねえ」の「理屈」は、「ことば」と置き換えてもいいでしょう。
しかし、「理屈」いわば論理のことば以外の、
もうひとつのことばがあります。

 

ギリシア人自身は、「神話」を「ミュートス」とよびました。
ミュートスとは、
本来は、「話された言葉」とか、「話」とかいうだけの意味ですが、
そのことから、ひろく物語一般をさすことにもなりました。
ただ、
「ミュートス」といった場合、
「論理の言葉」、「真実を伝える言葉」である「ロゴス」との対立が意識される
ことも多く、
その意味では、
「つくり話」、「うその話」という意味あいを負わされることもあるのです。
にもかかわらず、
ギリシア人は、
言葉というもののふたつの面のいずれかを軽んじることはなく、
「ロゴス」を追求しながらも、
「ミュートス」のもつ創造性を知っていたのです。
哲学者プラトンが、
真理に近づくために、しばしば比喩やミュートスを活用したことも、
知られています。
また、悲劇詩人たちも、神話をよりどころとして、
人間存在への考察を稀有の深さにまでおし進めたのです。
神話は、
論理の言葉ではありませんから、
かえって、詩や美術や哲学への応用がきくのです。
それは、論理の言葉では到達できない真実を、垣間見せてくれるのです。
こうして、
ギリシア神話は、芸術や哲学を豊かにしつつ、
みずからも、ますます豊かになってゆきました。
(中村善也・中務哲郎[著]『ギリシア神話』岩波ジュニア新書、1981年、pp.1-2)

 

人間は、理屈では動かない。論理のことば(=理屈)だけで動くほどたやすくない
生き物なのでしょう。
そこで、
神話や物語や比喩の意味を考えてみる必要がでてきます。
神話や物語や比喩に、即効性はありません。
しかし、
それをじぶんに引き付け深く味わうことで、
じわりと効いてくる気がします。
鍼や灸によって、からだにいいクセが身につくように、
ミュートスによって、
思考のクセに自ら気づくことができるかもしれない。
教育学者の林竹二さんは、
「学んだことの証は、ただ一つで、何かが変ることである。」
とおっしゃいましたが、
理屈のことばだけでは、 なかなかむつかしい。
アリストテレスから始めた学問研究がのちにプラトンに至った林さんの道筋を、
いまの文脈で考えてみたい気がします。

 

・五月雨を止まり木の梟の黙  野衾

 

傲慢と嫉妬について

 

古い時代につくられ、読まれ、読みつがれてきた書物を読んでいると、
似たようなエピソードにときどき出くわす。
たとえば、
身分の高い人妻が若者に恋をし、それが受け入れられないことを怨みに思い、
かえって夫に讒言するというような。
『アラビアン・ナイト』で読んだけれど、
『旧約聖書』「創世記」にも、同じような話が出てきます。
このエピソードのもっとも古いのは、
読んだことがないけれど、
紀元前十三世紀ごろのエジプトの『二人兄弟の物語』にあるそうです。
影響関係があるかもしれないし、
ないかもしれない。
それよりも、
こういうむかしむかしの話を読んでつくづく思うのは、
人間は、ほとほと変らないなー、
ということでありまして。
とくに、ギリシア神話やそれに関する本を読みながら、
わが身を反省しつつ、
人間の傲慢と嫉妬について思いを巡らさずにはいられません。

 

それでは、アラクネの罪は何だったのでしょうか。
もちろん、おのれの機織りの技術を神のそれよりもすぐれていると考え、
神に腕くらべを挑んだという、
人間にあるまじき「傲慢」がそれだったということになります。
しかし、
みぎの物語をたどってみますと、
彼女のそういう「うぬぼれ」にもそれなりの理由はあり、
女神を相手にして彼女が織りあげた作品の出来ばえは、
女神の「癪にさわる」ほどのものであったことも、じじつです。
そして、
女神が、彼女の織った織物をひき裂き、彼女の額を梭で打ちすえたのは、
彼女の作品の「出来ばえが癪にさわった」からです。
彼女の側にも「傲慢」
――こういう種類の傲慢をギリシア語では「ヒュブリス」といいます――
という罪があったかもしれませんが、
女神の行為にも、
「嫉妬」的な動機があったともおもわれます。
「アテナ女神も、『妬み』の神も……」などといわれていることからも、
そういう感じは強められましょう。
そして、
もともと、ギリシア的な考え方では、
人間の「ヒュブリス」というものと、神の「嫉妬」
――ギリシア語では「プトノス」です――
というものは、表裏をなすものでもあったのです。
神が「嫉妬する」といえば、一見、おかしなことのようにもおもえるのですが、
ギリシアの神々には、
そういう場合がひじょうに多くあり、
彼らが「人間的」でありすぎるといわれる理由のひとつ
にもなっているのです。
(中村善也・中務哲郎[著]『ギリシア神話』岩波ジュニア新書、1981年、pp.131-132)

 

ちなみにアラクネは『広辞苑』にも載っています。
いわく、
「ギリシア神話の機織り女。アテナと技を競い、憎まれて蜘蛛に変えられた。」

 

・新緑や小闇七色風来たる  野衾

 

理解を超えることば

 

一日一ページずつ読む本がいくつかあるなかで、『リジューのテレーズ 365の言葉』
は、帰宅後すぐに手にとります。
編者はレイモンド・ザンベリさん、
編訳者は伊従信子(いより のぶこ)さん。
2011年に女子パウロ会から刊行されています。
わたしが持っているのは4刷。
著者のテレーズ・マルタンさんは、フランスのカルメル会修道女だった方。
1873年に生まれ1897年に帰天されていますので、
24年の人生でした。
この本に、
むつかしいことばはでてきません。
むつかしいことばがでてきてほしいと思うくらい、
ことばそのものは、むつかしくない。
みじかい時間なら、暗記して口にだして言えるぐらいですが、
そうしたからといって、
どうにもなりません。
テレーズさんの自伝に『小さき花』
がありますが、
道の横に咲いている小さい花を目にし、しばし立ち止まり眺めるときがありますけど、
そんなふうにして読むのがせいぜいです。
5月27日のページに、
こんなことが記されています。

 

くよくよすることは、わたしたちのためになりません。
こういう場合は、自分から出て
急いで愛のわざを追いかけるようにすることです。
神さまは無理に自分とつきあうようにはおさせになりません。

 

・にぎはひを冷まして静か五月雨  野衾

 

体力勝負

 

おおざっぱな言い方をしますと、何ごとにつけ、
だいたいポジティブ・シンキングを心がけるようにしています。
そう考えることで、
日々を少しでも明るく過ごせればと願う今日このごろ。
ネガティブよりもポジティブ。
加齢によるいろいろも、
赤瀬川原平さんの「老人力」に習い、悲観的にならぬよう極力気をつけています。
が、
きのうのことです。
日々のささやかなこころがけではカバーできない出来事が起こりました。
「お先に失礼します」
社にいる皆さんに挨拶をし、荷物をもって退室。
と、ん!?
なんだかとっても身が軽い。
ん!?
あっ!!!
リュ、リュック忘れた!!
じぶんで驚いた。身が軽いはず。小さなトートバッグと本を入れた布の袋は持ったのに、
肝心のリュックサックを忘れているではないか。
じとーっ。
脇の下に変な汗。
回れ右して、何も言わずに、退室したばかりの社に戻り、
静かに堂々と歩を進め。
机の横に置いてあるリュックをおもむろに手に取り、
ゆっくり背中に背負い、そろ~り、
ふたたびの退室。
だれも何も言わない。無言で机に向かっている。
ほ。
よかった。たすかった! 気づかれてない!
胸をなでおろす。
それから、
何ごともなかったかのように家にたどり着いた。
以上、
一連のことを家人に報告したところ、
いわく、
「きっと、みなさん気づいていたと思うよ。あら!? シャチョー、どうしたんだろう?
そう思っていたわよ」。
そうか。
そうだったのか!
でも。
と、ここでポジティブ・シンキング。
土、日も出勤し、ただいま鋭意集中して読んでいるゲラがあり、
つづきをきのうも読んでいた。
一ページが約五分として十ページで五十分。
気になることを調べ始めると、
十分、二十分はすぐに経つ。
休憩をはさんで三時間もつづけると、ヘロヘロに。
ことばを追いかけ読むのに、
アタマはもとより、こんなに体力を使うのかと改めて思い知らされます。
そうか。
集中して仕事をしたせいか。
そのせいでリュックを忘れたのか。そう思うことにしよう。
そうだそうだ。
でもな。
すこし無理がある。

 

・新緑や開けて黙示の音を聴く  野衾

 

子どもの宝物

 

まえにもこのブログで取り上げたことがありますが、
わたしが一日一ページずつ読む本に、
大塚野百合・加藤常昭編『愛と自由のことば 一日一章』があります。
日本基督教団出版局から
1972年12月15日に発行されたものです。
こういう日めくりのような本がいくつか出ていますが、
おもしろいのは、
毎年読んでいると、
年によって、印象が変ること。
本のことばは変っていないのですから、読む側の変化、
と思うしかありません。
5月29日のページに、ポール・トゥルニエさんの文章が載っていました。

 

子供の考え方を理解しない親たちは、
よく、非常に手のこんだおもちゃを子供に与えます。
それは値段も高く、
技術的にも精巧であるという点で大人の目から見ると高価なおもちゃ
であることはたしかなのですが、
こうしたおもちゃは、
非常に現実に密着した、
日常生活に実際に用いられている道具や機械の模型にすぎません。
ところがおもちゃが精巧になればなるほど、
子供が自分の内部から、
つまり自分の想像力や詩的空想ポエジーから何かをそれにつけ加える余地
がなくなってしまうのです。
子供はむしろ一本の紐とか棒切れ、または一枚の紙切れで遊びます。
こうしたものは、
どんなものをも表わすことができるし、
努力して操作をおぼえる必要もありません。
こういう単純なものが子供にとっては宝物なのです。
これこそが、
私たち大人が大切にしてやらなければならない宝物なのです。

 

トゥルニエさんの元の本は、三浦安子さんの訳で1970年にヨルダン社から出た
『人生の四季』とのこと。
さて、
引用した文章のなかに「棒切れ」が出てきます。
あれは、わたしがまだ小学校に入るまえだったと思います。
わたしはよく、
家の周りに落ちている、てきとうな棒切れを二、三本、腰のベルトに差して遊んでいた。
いっぱしの少年剣士、いや、
子ども剣士になったつもりだったのでしょう。
まだ家にテレビがない頃のことで、
どうしてああいう恰好をしたかったのか、
我がことながら、
いまとなっては謎です。
が、
小躍りするようなあのワクワク感、嬉しさ、喜びはこころの奥に仕舞われて
いるようです。

 

・休日のわつぱがでぎだ夏夕焼け  野衾