子どもの宝物

 

まえにもこのブログで取り上げたことがありますが、
わたしが一日一ページずつ読む本に、
大塚野百合・加藤常昭編『愛と自由のことば 一日一章』があります。
日本基督教団出版局から
1972年12月15日に発行されたものです。
こういう日めくりのような本がいくつか出ていますが、
おもしろいのは、
毎年読んでいると、
年によって、印象が変ること。
本のことばは変っていないのですから、読む側の変化、
と思うしかありません。
5月29日のページに、ポール・トゥルニエさんの文章が載っていました。

 

子供の考え方を理解しない親たちは、
よく、非常に手のこんだおもちゃを子供に与えます。
それは値段も高く、
技術的にも精巧であるという点で大人の目から見ると高価なおもちゃ
であることはたしかなのですが、
こうしたおもちゃは、
非常に現実に密着した、
日常生活に実際に用いられている道具や機械の模型にすぎません。
ところがおもちゃが精巧になればなるほど、
子供が自分の内部から、
つまり自分の想像力や詩的空想ポエジーから何かをそれにつけ加える余地
がなくなってしまうのです。
子供はむしろ一本の紐とか棒切れ、または一枚の紙切れで遊びます。
こうしたものは、
どんなものをも表わすことができるし、
努力して操作をおぼえる必要もありません。
こういう単純なものが子供にとっては宝物なのです。
これこそが、
私たち大人が大切にしてやらなければならない宝物なのです。

 

トゥルニエさんの元の本は、三浦安子さんの訳で1970年にヨルダン社から出た
『人生の四季』とのこと。
さて、
引用した文章のなかに「棒切れ」が出てきます。
あれは、わたしがまだ小学校に入るまえだったと思います。
わたしはよく、
家の周りに落ちている、てきとうな棒切れを二、三本、腰のベルトに差して遊んでいた。
いっぱしの少年剣士、いや、
子ども剣士になったつもりだったのでしょう。
まだ家にテレビがない頃のことで、
どうしてああいう恰好をしたかったのか、
我がことながら、
いまとなっては謎です。
が、
小躍りするようなあのワクワク感、嬉しさ、喜びはこころの奥に仕舞われて
いるようです。

 

・休日のわつぱがでぎだ夏夕焼け  野衾