ふたつの「ことば」

 

映画『男はつらいよ』の第一作で、
寅さんと、さくらと結婚することになる博との喧嘩の場面があります。
ばんばん言い合いをしているとき、
「ざま見ろぃ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。 」
と寅さんが言い放つ。
耳にのこることばです。
「理屈なんかじゃ動かねえ」の「理屈」は、「ことば」と置き換えてもいいでしょう。
しかし、「理屈」いわば論理のことば以外の、
もうひとつのことばがあります。

 

ギリシア人自身は、「神話」を「ミュートス」とよびました。
ミュートスとは、
本来は、「話された言葉」とか、「話」とかいうだけの意味ですが、
そのことから、ひろく物語一般をさすことにもなりました。
ただ、
「ミュートス」といった場合、
「論理の言葉」、「真実を伝える言葉」である「ロゴス」との対立が意識される
ことも多く、
その意味では、
「つくり話」、「うその話」という意味あいを負わされることもあるのです。
にもかかわらず、
ギリシア人は、
言葉というもののふたつの面のいずれかを軽んじることはなく、
「ロゴス」を追求しながらも、
「ミュートス」のもつ創造性を知っていたのです。
哲学者プラトンが、
真理に近づくために、しばしば比喩やミュートスを活用したことも、
知られています。
また、悲劇詩人たちも、神話をよりどころとして、
人間存在への考察を稀有の深さにまでおし進めたのです。
神話は、
論理の言葉ではありませんから、
かえって、詩や美術や哲学への応用がきくのです。
それは、論理の言葉では到達できない真実を、垣間見せてくれるのです。
こうして、
ギリシア神話は、芸術や哲学を豊かにしつつ、
みずからも、ますます豊かになってゆきました。
(中村善也・中務哲郎[著]『ギリシア神話』岩波ジュニア新書、1981年、pp.1-2)

 

人間は、理屈では動かない。論理のことば(=理屈)だけで動くほどたやすくない
生き物なのでしょう。
そこで、
神話や物語や比喩の意味を考えてみる必要がでてきます。
神話や物語や比喩に、即効性はありません。
しかし、
それをじぶんに引き付け深く味わうことで、
じわりと効いてくる気がします。
鍼や灸によって、からだにいいクセが身につくように、
ミュートスによって、
思考のクセに自ら気づくことができるかもしれない。
教育学者の林竹二さんは、
「学んだことの証は、ただ一つで、何かが変ることである。」
とおっしゃいましたが、
理屈のことばだけでは、 なかなかむつかしい。
アリストテレスから始めた学問研究がのちにプラトンに至った林さんの道筋を、
いまの文脈で考えてみたい気がします。

 

・五月雨を止まり木の梟の黙  野衾