キーンさんと小西さん

 

ところで、作り物語は、一般的にいって、小説とたいへん違った特性をもつ。
それは、
小説が人生の「切断面」を描くものであるのに対し、
物語は人生の「全体」を述べるものだという点である。
つまり、小説は、
長篇小説にもせよ短篇小説にもせよ、
作者の描こうとする中心があり、
それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、
物語は、むしろ、
周辺的な事実をこまごま書いてゆくことが本体なのである。
構想の緊密な統一を要するはずの短篇物語においてさえ、
主題がどこに在るのかわからぬような散漫さが、
常に平然として存在する。
小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、
物語においては、かえって本来の性格となる。
小説をよむときの批判基準は、物語に適用できないのである。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.56-7)

 

この三連休、読みたい本が何冊かあり、計画を立てて朝からせっせと読みすすめ、
ほぼ計画どおりに読みすすんだのは良しとすべきですが、
三日目のきのうに至り、
さすがに、
疲れた。くたびれた。呆けた。
そうか。いいこと思いついた。そうだ。そうしよう。
夕刻風呂に入り、
湯舟につかっていい湯だな。
っと。
これでよし(なにが?)
風呂から上がり、乾いたタオルで体を拭き下着を替え。
さて。
和室にある文庫本の棚をひょいと見たら、
小西さんの本。
そうか。
この本まだ読んでなかったな。
ぶ厚い五冊ものの『日本文藝史』を読んだので、
小さいのはそのうちに、
なんて思って済ませていたのでした。
ちょうどいい(なにが?)
これにしよう。
と。
いきなり小西節全開! 抜群に歯切れがよい。
ドナルド・キーンさんと小西さんの縁をつくっただいじな一冊。
キーンさんはこの本の旧版(弘文堂「アテネ新書」の一冊として昭和28年刊)
を読むまで小西さんを知らなかった。
旧版のこの本を読んで感動し、
それがきっかけで小西さん本人の自宅を訪ねたことが、
講談社学術文庫版の解説に書かれています。
これがまたキーン節全開で。

 

・ゆかしきは風止む底の虫の声  野衾

 

本を読む人々

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、
本を読むのか。
それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。
心細いものだ。
だが、われわれ自身のものである。
私の意見では、
本が文学的であればあるほど、
つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、
より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、
深遠なものなら、
人々は本を読むのだ。
本を読む人々は、とどのつまり、
文学(それが何であろうとも)好きな人々である。
彼らは本にだけあるものが好きなのである。
いや、
彼らは本だけがもっているものを求める。
もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。
本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。
本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。
彼らは本を読むほうが好きなだけだ。
そもそも本を読まない人々に気に入ってもらおうとして
何年も苦労して本を書く
などということ以上に悲しい試みがあるだろうか。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.61-2)

 

そのとおり、と思いました。
わたしがそのことをふかく知ったのは、
親しくしている近所の女の子たちとの会話からでした。
あれは、
ふたりがまだ小学生だったころのこと。
いまの子たちですから、
ふつうにいまどきの遊びを楽しんでいました。
あるときわたしはふたりに聞きました。
「どうして本を読むの?」
間髪を容れずにおねえちゃんが「本は別だから」
妹は頷いています。
テレビはテレビ、ゲームはゲーム、スマホはスマホ。
それと本は別。
そうか。
その後、二人が読んでおもしろかったという『メアリー・ポピンズ』のシリーズと、
『ドリトル先生』のシリーズを読んだのでした。

 

・けふの日の賑はひ遠し虫の声  野衾

 

声が聞こえる

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。
人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。
書きものはしょせん書きものにすぎず、
文学もまた同様である。
それはもっとも繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――
そしてモラル感と知性にのみ訴える。
あなたが今しているこの書くということ、
あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、
まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、
他の人にはほとんど聞こえないのだ。
読者の耳は、
大きな音から微かな音に、
書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。
本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。
書いてあることの調節状態、
その盛り上がりと下り具合、
音の大きさと柔らかさがわかるには、
半時間はかかる。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.59)

 

以前、中井久夫さんの本を読んだとき、
翻訳をするときには、
原著者が日本語を話せるものと想像し、その声を聴くようにして日本語にする、
という主旨の文章に目がとまりました。
柳沢由実子さんが訳されたアニー・ディラードの文章を読むと、
アニー・ディラードさんの声が聞こえてくるようです。
本を読むことは、
文字をとおして、それを書いた人の声を聴く、
ということになりそうです。
そのためには集中することが必要
になりますが、
集中しようと意図して集中できるものではありませんから、
集中のカミサマが下りてくるように、
場をととのえなければなりません。
紙の本は、
そのためにもある気がします。

 

・白雲のたつ果て知らず今朝の秋  野衾

 

風景うごく

 

子供のころ、外をぼうっと眺めていて、祖母に注意されたことが何度かあります。
ぼうっと何かに見とれているうちに、
気が触れてしまうと祖母は思ったかもしれません。
田舎のことですから、
そういう言い伝えがあったのかもしれず。
柳田國男の『故郷七十年』に、
それに似たエピソードが紹介されていて、
驚いたことがありました。
ともかく、
そういう癖も、
三つ子の魂百までのことわざどおりで、
いまとなっては、
だれも注意してくれるひとがありませんから、
以前にも増して、ただ、ぼうっと眺めているようです。
じぶんでそのことに気づくのは、
風景が動くから。
ぼうっと、また、じっと眺めている風景の画のどこか一点がほんの少しだけ動く、ズレる。
それでハッと我に返る。
うごいたものに眼をやると、
そこにいのちを宿したものが蠢いている。
枯れ落ちる一葉であることもあるけれど。
急ぐなよ。
先だって、
外出した折、坂の途中でしばし立ち止まりました。
風が気持ちいいのでそうしたのでしょう。
立ち止まった動機が今いち思い出せません。
どれぐらいの時間そうしていたのか。
と、
風景がうごいた気がした。
見ると、
樹上に赤茶けた、細く、長い蛇が、頭をもたげていた。
幹でなく、枝と葉にくねる体を絡ませて。
崖に生えている樹ですから、
坂の上からよく見えます。
こんな大きな樹の上までよくぞ這い上がったな。
とおくジオラマの風景のなかを横須賀線下り電車がすべっていった。
またぼうっとしていたようです。

 

・夢かとぞ問ふひともなし虫の声  野衾

 

ピンクのランドセル

 

朝、ツボ踏み板を踏みながらの体操は約三十分を要します。
五年程前に始めたときは、
痛くて、脂汗がにじみ、
三十分はおろか、十分踏むのもやっとの状態でしたが、
必死に痛みをこらえ、つづけているうちに、
いまは鼻唄交じりでも、本を読みながらでも、できるようになりました。
げに継続は力なり。
鼻唄を歌わず、本を読まない場合、
要するに、
ただツボ踏みに専念するときがいちばん多いわけですが、
痛くないので、
意識が足裏に向かうことはなく、
ここ山の上から、
季節ごとの風景を眺めるのが楽しみの一つ。
ツボ踏み板の上で、踏みながら体を回転させるやり方もありまして、
まるで自力の回転展望台。
しずかな動画がくり広げられます。
カラスが飛び、ハトが飛び、たまにアオサギが飛び。
スズメの子らが五羽六羽、
遅れて一羽。
犬を連れてゆっくり上ってくる散歩のおじさん。
めったに見られないけど、
電線の上を台湾栗鼠たちの目くるめくサーカス。
ゴミ出しの日は、
向こうの丘から、手すりをぽんぽんぽんと、可愛くたたきながら階段を下りてくるおばさん。
一日の始まりです。
やがてピンクのランドセル。
数年前に見たときは、
大げさでなく、
ランドセルが生きて、弾けて、坂を下りていくように見えた
(小学一年生になったばかりだったのでしょう。
「行ってきまーす」の元気な声が聞こえ、
その後、ランドセルが揺れて走っていった)
のに、
このごろは、
ランドセルを背負った女の子が、
一歩一歩、ゆっくり坂を踏みしめ下りて行きます。
学校での生活も厚みを増したことでしょう。
山の上から見下ろすのは後ろ姿だけですから、
顔が見えず、
どこに住んでいる娘さんか、まったく分かりません。
だから、よけいに、
ランドセルと娘さんの対比が日々の記憶に刻まれていくようです。
歳月は確実に過ぎてゆきます。

 

・正面に黒猫のそり秋来る  野衾

 

声の文化と文字の文化

 

声の文化と文字の文化の相互作用は、
人間の究極の関心と願望〔としての宗教〕にもかかわりをもっている。
人類のすべての宗教的伝統は、
声の文化に根ざした過去のうちにその遠い起源をもっている。
また、
そうした伝統はすべて、
話されることばをを非常に重んじているように思われる。
しかし、
世界の主要な宗教は、
聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によっても内面化されてきた。
キリスト教の教義においては、
声の文化と文字の文化の二極性がとくに先鋭化している。
おそらく他のどんな宗教的伝統よりも
(ユダヤ教とくらべてさえも)
先鋭化している。
なぜなら、
キリスト教の教義においては、
唯一神性の第二位格 Person、人類の罪をあがなうこの第二位格が、「神の子」と呼ばれる
ばかりでなく「神のことば Word of God」とも呼ばれるからである。
この教義にしたがえば、
父なる神はかれの「ことば」、かれの「子」を口に出す、
あるいは話すのである。
神はけっしてそれを書きつけるのではない。
「子」の位格はまさに「神のことば」からなりたっている。
(ウォルター・J・オング[著]桜井直文/林正寛/糟谷啓介[訳]『声の文化と文字の文化』
藤原書店、1991年、pp,363-4)

 

白川静さんの本をひとしきり読んだ後だったので、
よけいに、
声の文化にかんする考察がとても刺激的で、
興味ぶかく読みました。
ことばにかんするわたしの思考は、
単純に、
いずれの文化圏においても、
文字が作られる前に話しことばがあっただろうということ、
それと、
亡くなった祖母が、
家が貧しくて小学校にも行けず、
奉公先の大学生の子息から、平仮名と片仮名と少々の漢字を習い、
それは書くことができても、
基本的に話しことばの人であったこと、
この二つが、根本的な土台になっています。
本に記された文字を読むときに、
意味を伝える記号として読むのか、
声を記録した記号として読むのか、
では、
おのずと態度と経験がちがってくるように感じます。

 

・秋高し先蹤を追ひ土を踏む  野衾