本を読む人々

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、
本を読むのか。
それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。
心細いものだ。
だが、われわれ自身のものである。
私の意見では、
本が文学的であればあるほど、
つまりより純粋に言葉化されていて、一文一文創り出されていて、
より創造力に満ちていて、考え抜かれていて、
深遠なものなら、
人々は本を読むのだ。
本を読む人々は、とどのつまり、
文学(それが何であろうとも)好きな人々である。
彼らは本にだけあるものが好きなのである。
いや、
彼らは本だけがもっているものを求める。
もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。
本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。
本を読む人々はテレビのスイッチを入れるのが面倒なわけではないのである。
彼らは本を読むほうが好きなだけだ。
そもそも本を読まない人々に気に入ってもらおうとして
何年も苦労して本を書く
などということ以上に悲しい試みがあるだろうか。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.61-2)

 

そのとおり、と思いました。
わたしがそのことをふかく知ったのは、
親しくしている近所の女の子たちとの会話からでした。
あれは、
ふたりがまだ小学生だったころのこと。
いまの子たちですから、
ふつうにいまどきの遊びを楽しんでいました。
あるときわたしはふたりに聞きました。
「どうして本を読むの?」
間髪を容れずにおねえちゃんが「本は別だから」
妹は頷いています。
テレビはテレビ、ゲームはゲーム、スマホはスマホ。
それと本は別。
そうか。
その後、二人が読んでおもしろかったという『メアリー・ポピンズ』のシリーズと、
『ドリトル先生』のシリーズを読んだのでした。

 

・けふの日の賑はひ遠し虫の声  野衾