この随筆は、たいへん断片的な構成をもち、統一らしい統一がない。
そこに述べられている思想や感情さえ、
しばしば矛盾を示すのである。
随筆と訳する西洋のessayやWissenschaftは、もっと主題に統一があり、
思想の骨組が明確で、
『徒然草』のように無構造的ではない。
しかし、
この無構造的なところこそ、じつは、日本文藝のひとつの特色なのであって、
古くは『古事記』あたりから、
作り物語・連歌・浄瑠璃・歌舞伎脚本・浮世草子にいたるまで、
みな多少とも持ちあわせているものである。
『徒然草』は、
その代表的な作品といってよいが、
ときどきあまりにも明瞭な矛盾が示されるので、
中世人の博識にして不統一なる頭脳の見本だと評する人もある。
しかし、これは、
兼好が人生の真実を知りぬいていたことの現われと解するべきだろう。
人生は矛盾のかたまりであって、
そこにおもしろさもあれば味もある。
その辺の消息は百も承知、千も合点という苦労人兼好が、
ものごとは両面をもつものだから、
割り切らないところに真実が在るのだよ――と教えているのである。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.127-8)
小西さんの文章、あいかわらず歯切れがよい。
兼好法師が人生の酸いも甘いも知って『徒然草』を書いたというのは、
なるほどと納得しますが、
そういうことを歯切れよく書いている小西さん、
これをいくつでものしたか
と疑問に思い「あとがき」を読んだら、
いまは絶版になっている弘文堂の「アテネ新書」の一冊としてこの本の旧版が世に出たのが、
昭和28年12月。
え!
ということは、小西さん、
おそらく、このときまだ38歳!
38歳にしてこの穿つような物の見方、文章と文藝に対する読みの深さ。
そして切れ味のよさ。
生家が伊勢神宮の近くの魚屋さんだということですから、
たとえば鯵をさばくようなものか。
ちがうか。
ほとほと参ります。
ドナルド・キーンさんが感服したのも分かる気がします。
・電車降りホームぐるりの秋高し 野衾