声の文化と文字の文化の相互作用は、
人間の究極の関心と願望〔としての宗教〕にもかかわりをもっている。
人類のすべての宗教的伝統は、
声の文化に根ざした過去のうちにその遠い起源をもっている。
また、
そうした伝統はすべて、
話されることばをを非常に重んじているように思われる。
しかし、
世界の主要な宗教は、
聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によっても内面化されてきた。
キリスト教の教義においては、
声の文化と文字の文化の二極性がとくに先鋭化している。
おそらく他のどんな宗教的伝統よりも
(ユダヤ教とくらべてさえも)
先鋭化している。
なぜなら、
キリスト教の教義においては、
唯一神性の第二位格 Person、人類の罪をあがなうこの第二位格が、「神の子」と呼ばれる
ばかりでなく「神のことば Word of God」とも呼ばれるからである。
この教義にしたがえば、
父なる神はかれの「ことば」、かれの「子」を口に出す、
あるいは話すのである。
神はけっしてそれを書きつけるのではない。
「子」の位格はまさに「神のことば」からなりたっている。
(ウォルター・J・オング[著]桜井直文/林正寛/糟谷啓介[訳]『声の文化と文字の文化』
藤原書店、1991年、pp,363-4)
白川静さんの本をひとしきり読んだ後だったので、
よけいに、
声の文化にかんする考察がとても刺激的で、
興味ぶかく読みました。
ことばにかんするわたしの思考は、
単純に、
いずれの文化圏においても、
文字が作られる前に話しことばがあっただろうということ、
それと、
亡くなった祖母が、
家が貧しくて小学校にも行けず、
奉公先の大学生の子息から、平仮名と片仮名と少々の漢字を習い、
それは書くことができても、
基本的に話しことばの人であったこと、
この二つが、根本的な土台になっています。
本に記された文字を読むときに、
意味を伝える記号として読むのか、
声を記録した記号として読むのか、
では、
おのずと態度と経験がちがってくるように感じます。
・秋高し先蹤を追ひ土を踏む 野衾