岡本おさみさんのこと 2

 

ある時期、その編集作業
(録音テープをハサミで切り、細い接着テープで貼ってつなぐ作業――三浦)
をやってみろと言われたんです。
これは怖かったですよ。
(お喋りの)どこを残してどこを捨てればいいのかの判断が、
本当に難しい。
初期の頃に、これではだめだと言われて、やり直しをさせられたことが何度もあったんです。
だめな編集とはどういうことかというと、
面白い話をDJが5つしたとします。
そうすると、
その5つの話のすべてを入れたがる。どうなると思いますか。
時間が短いのに、話が沢山あるのでひとつひとつの話は骨組みだけが残ってしまう。
おしゃべりっていうのは、
その人の人柄を伝えることで生き生きとしてくるもので、
無駄と思ったものが実は非常に大事になってくるんです。
それがなかなか分からなくて、
テープを切ることができなかったんです。
後になって、
それは例えば文章を書くこととか、
歌の言葉を書くことと同じということに気が付いたんですが、
その編集作業を教えてもらえたことが、
ぼくが文章を書くための勉強になった「レッスン・1」だったと思います。
(岡本おさみ『旅に唄あり 復刻新版』山陰中央新報社、2022年、p.338)

 

岡本さんが作詞家になるまえ、放送作家時代の話です。
編集の仕事に携わる人は、だれもが通らなければならない類の関門で、
わたしも、前の職場で、
そのことを身を以て知りました。
この本にも名前がちょこっとでてくる作家の五木寛之さんが、
たしかこんなことを、
どこかに書いていました。
歌詞を書くときに、
キラキラした目立つ言葉ばかりを多く入れると、
言葉どうしがぶつかり合い、かえって平板なものになってしまう。
歌詞には、ダレ場が必要。
平凡な言葉のダレ場があることで、
ここぞというところの言葉が活きてくる云々。

きのうの引用文の箇所は、301ページではなく、94ページです。
お詫びして、訂正いたします。

 

・秋風やこの恩寵の何処より  野衾

 

岡本おさみさんのこと

 

「旅をしていて小さな漁村の風景をみてそこの暮しの匂いをかいでいると、歩けば歩いただけ、
にっぽんって森進一さんの声だなァと思うんです」
とぼくが言った。
どんな夕陽の美しい船着場にも、
けっして歌わない夕陽が沈んでゆき、
いつも暮しのシミをひとつひとつ拾いながら歩いてゆく
ような気がするのである。
「フォークやロックはなぜかお金に余裕のある人の唄のような気がします。
演歌はドン底の人の唄のような…」
と森進一さんは、
彼にしてはめずらしく、つつましく発言した。
「もっと暮しのシミに近づきたいと思ってるんですが」
というようなことを、ぼくも言った。
小室さんの名司会もあって気持のよい対面だった。
(岡本おさみ『旅に唄あり 復刻新版』山陰中央新報社、2022年、p.94)

 

横須賀にある私立の高校に勤めていたころ、
その最後の年だったと思いますが、
吉田拓郎の「アジアの片隅で」という歌を聴き、衝撃を受け、
テープに吹き込み、
繰り返し繰り返し、ときどき、目頭を熱くしながら、何百回となく聴きました。
なにか、生きる根源にひびいて来るものがあったんだと思います。
人生の分岐点でした。
作詞したのが、
吉田拓郎でなく、岡本おさみであることを、
復刻新版のこの本の存在を知るまで、
知りませんでした。
さっそく買って読みました。
岡本おさみさんという方は、こういう人であったのか、
こういう感性の方が、「アジアの片隅で」を書いたのか…。
森進一が歌った「襟裳岬」の作詞も、
岡本さんです。
上で引用した文章の「小室さん」は小室等。
昭和49年11月のある日に、
TBSラジオのスタジオで森進一に初めて会ったときの対話から。

 

・右往左往蟻が蠢く残暑かな  野衾

 

意志と衝動

 

私たちが死の代わりにいのちを選ぶためには、しばしば衝動とは相反する意志の働き
を必要とします。
意志が許そうとするのとは反対に、衝動は復讐しようとします。
衝動は私たちに即答を迫ります。
誰かに顔を殴られたら、
衝動的に殴り返したくなるものです。
では、
意志が衝動に打ち勝つようにするにはどうすればよいのでしょうか。
鍵となる言葉は「待つ」です。
何が起ころうとも、
私たちに向けられた敵対的な行為と、
私たちの反応とに間を置かねばなりません。
自分自身をその事柄から引き離し、時間をかけて考え、友人と話し合い、
前向きに応えることが出来るようになるまで待たねばなりません。
衝動的な反応をするなら、
悪が私たちに勝つようになり、
そのことでいつも後悔するでしょう。
けれども
よく考え抜いてから答えることで私たちは
「善をもって悪に勝」つように助けられることでしょう(ローマ12・21)。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.301)

 

先だって、『アラン『定義集』講義』の著者・米山優先生と対談した折、
考えることがきわめて意志的な行為である
ということについても話題となり、
さらに、
「意志的である」は、
そこに、何らか選択の行為が含まれていることについて、
考えさせられるお話を伺うことができました。
アランがストア派の哲学者の心性を尊重している
というのも、納得。

 

・公園のひぐらし子を呼ぶ母の夕  野衾

 

本が本をよぶ

 

大学の経済学部に入り、三年生に上がるとき、ゼミを選択する必要に迫られ、
わたしは、嶋田隆先生の日本経済史をえらんだ。
じぶんが育った農村のことを学べるような気がしたことが、
選択の理由だったかもしれない。
嶋田ゼミに入って最初に読んだのが、
有賀喜左衛門の『日本家族制度と小作制度』
だった。
じぶんと自分のことを距離をおいて眺めることの必要、
その折の感覚をそこで知った気がする。
本に登場する用語は、
辞書で調べてよしとする、意味だけの、単なる熟語ではなかった。
たとえば、
本家、分家、という言葉を用いて論述される文章に触れると、
稲の収穫時期、子供までいっしょになって、
本家筋の家に集まったことが、
わくわく感や、ある恥ずかしさをともない、
きのうのことのように、
まざまざと思い出された。
『日本家族制度と小作制度』は
学問の本ではあるけれど、
記憶の呼び水という点において、
ほかの本と何ら変わるところがなかった。
有賀さんの本のこと、
それを当時どんな気持ちで読んでいたのか、
またそのころの学生生活
を思い出したのは、
いま読んでいるクロード・レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』
によってである。
マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウンの名は、
有賀さんにほど近い。
一冊の本が過去に読んだ本の記憶を呼び覚まし、
それが、
本以前の記憶に直結している。

 

・いつの間にめぐるめぐるや虫の声  野衾

 

これも遺伝!?

 

家でも会社でも、床に小さなゴミが落ちていると、つい拾ってしまい、
これは、わたしが善人であることの証ではなく、
ただのクセでありまして、
秋田にいる母とそっくりなのでした。
こういう類は、
けして遺伝ではない
と思うのですが、
母を見ていてそうなったのではなく、
あるとき帰省しているときに、
母の行動を見ていてハッと気がつき、
ふだん自分が行っている行為とあまりに似ていることから考えると、
遺伝ではないにしても、
遺伝的ではあるのでした。
「床に落ちているゴミを拾う」ことに加え、
このごろ気になるのが、
小さなプラスチック容器に入っているヨーグルトを食べたあとの行為でありまして。
どういうことかと言いますと、
ヨーグルトを食べた後、
容器の底に1ミリでもヨーグルトが残っていると、
「これでもか」というぐらい、
さいごの最後まで、
徹底的にすくい上げなければ気が済まないことであります。
どうも気が済まない。
それで、
ふと思い出したわけであります。
秋田の母が、
これとおんなじことをしていたな…。
これも、
遺伝ではないと思いますけれど、
遺伝的ではあります。

 

・いわし雲かなしさ淡く広がりぬ  野衾

 

言語味覚

 

「言語味覚」という語は、
文学批評に携わっている人々のあいだでよく用いられている言葉で、
それは雄弁の習性を言語機能のうえで持っていることを意味する。
雄弁とは、
すでに説明したように、
語られる言語が〔意図する〕意味にあらゆる面にわたって合致し、
しかもこの合致が、
構文が持つある特性に与えられるときに、
はじめて生まれる。
アラビア語のすぐれた能弁家は、
アラビア語の話し方に従って、
このような合致を生み出すのにもっともよい表現形式を選び、
言葉をできる限りその線にそって並べる。
もし、
アラビア語の話しぶりが一定してそのようになされるならば、
その人は自分の話し言葉をそのような線にそって並べることに習熟しているといえる。
彼にとって構文を作るのはいともたやすいことであり、
立派なアラビア語を話すという道からもほとんど逸れることはない。
もし、
この線にそわない構文を耳にすると、
それを唾棄し、彼の耳はちょっと考えこんでしまう。
事実この心の反応があってこそ、
彼は言語上の習性を得ているといえる。
(イブン=ハルドゥーン[著]森本公誠[訳]『歴史序説(四)』岩波文庫、2001年、pp.181-2)

 

「言語味覚」という言葉は、これまでにもでてきて、
おもしろいと思いましたが、
引用した文章は、
そのことに関しバッチリまとめて論じており、イブン=ハルドゥーンの考えがよく解ります。
言わずもがなのことながら、
味覚は舌の感覚。
食べ物や飲み物について言うのがふつうですが、
ことばも舌に上せて味わう、
というところに「言語味覚」の要諦があるのでしょう。
たとえば「コーラン」はどうでしょうか。
「コーラン(クルアーン)」がアラビア語で
「誦まれるもの=声にだして詠唱すべきもの」
を意味し、
外国語に翻訳されたものは、
本来の「コーラン(クルアーン)」とは別物であるというのは、
「言語味覚」という考え方にも表れている気がします。

 

・少年の日の後悔も秋の空  野衾