大野は最晩年、自分を責めることが多くなっていた。
責める理由の一つは、
「生徒に作文を書かせ、家に持ち帰って誤字を訂正し、批評を加える。
そういう先生を増やすことに、僕はもっと時間とエネルギーを使うべきだった。
そうしておけば、
日本もこんなひどい国にならなくてすんだかもしれない。
そんな気がしてならない」
ということである。
引き受けたのは、
贖罪《しょくざい》のためだったのかもしれない。
会見で大野は、
言葉が日本を救った例を語った。
ポツダム宣言の中の一節、
「天皇はis subject to 連合国最高司令官」
の訳である。
普通は「従属する」と訳すところを外務省事務次官の松本俊一は、
「そんな訳にすれば、怒った軍部が焦土作戦に出る」
と考えて、
「制限の下に置かれる」と訳し、
天皇のもとに届けた話である。
松本にこういう訳ができたのは、
彼に日本語の教養があったからである。
日本を救ったのは、言葉の力であると、大野は諄々《じゅんじゅん》と説いた。
そして、
「私は日本語をいくらか勉強したので、少しわかるようになりました」
といってから、
「日本語が話せて、日本語の読み書きができる。
その程度で言葉がわかるとは思わないで下さい。
もっと本気で、日本語に対して下さい」
(川村二郎『孤高 国語学者大野晋の生涯』集英社文庫、2015年、pp.344-5)
引用文中にある「引き受けた」は、
東京書籍と時事通信社が共同で「日本語検定」を始めることになった折の、
監修役のこと。
大野さんは、
平成19(2007)年2月27日、
日本経団連会館で行われた記者会見で、上のように述べた。
このとき大野さん、87歳。
入退院をくり返し、
またそのうえに、
尻もちをついたはずみに背骨を傷め、補助具なしに歩けなくなり、
まっすぐ座ることもできなくなっていたのだとか。
このときの発言が、
公式の場で発した最後の言葉になりました。
「誤字を訂正し、批評を加える」
は校正のことですから、
わたしにも与えられている仕事を考えるための、
いいきっかけになりました。
この本の解説は内館牧子さん。
会見における大野さんの最後の言葉「日本語が話せて~」を、
肝に銘じたいと思います。
・ふるさとの何処にありや花野道 野衾