古今和歌集の804番に、つぎの歌があります。
初鴈の鳴きこそ渡れ世の中の人の心の秋しうければ
『古今和歌集全評釈』の片桐洋一さんの通釈は、
「秋になって初めてやって来た雁があんなに鳴いて空を渡って行くように、
私も泣きながら過ごしておりますよ。
秋ならぬ、世間の人の心の「飽き」がつらいものですから」
となっています。
紀貫之のこの歌、
「秋」に「飽き」が掛かっていておもしろく、
これは、この歌にかぎらず、
けっこうありまして、
ということは、
どうやら、
さらに古い時代からの日本人の感性に、溶け込み、沁み込んでいる
ということなのかもしれません。
それともう一つ、
この歌で気になるのは「世の中の人の心」
これについて片桐さんは、
つぎのように記しています。
『古今集』『後撰集』『拾遺集』の三代集から、「世の中の人の心」という言い方を
求めると、
当該歌を含めて、この『古今集』の恋五にしか見出せない。
そして当該歌以外の例は、
世の中の人の心は花染めのうつろひやすき色にぞありける (恋五・七九五)
色見えでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける (恋五・七九七)
の例のように
「✕✕は○○にぞありける」という総括的話法をとっており、
「世の中の人の心」が、
たとえ具体的に一人の人物の心のことを言っているにしても、
あくまで直接に指示する形ではなく、
一般論的に言っていることをあらためて確認するのである。
「世の中の人の心~」という言い方は、
このようにまさしく一般論化して総括的に言う『古今集』の歌にふさわしい話法だった
のである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、p.940)
一般論化して言うことが、つねにいいとは限りませんが、
「世の中の人の心」の場合は、
詠み手が特定のだれかを想定していても、
人というものは、
だれであってもそういうものかもしれないという、
いわば諦観に通じる音が底に響いているような気がしますから、
しみじみとした味わいが感じられます。
歌のなかに「秋」が歌い込まれているとなれば、
なお一層です。
・出汁たつぷり冬瓜箸にさくりかな 野衾