このあいだの日曜日、
Zoomによる対談を行った際、米山優先生の『アラン『定義集』講義』のなかから、
対談の進行上、何か所か読み上げたなかに、
マルクス・アウレーリウスの『自省録』がありました。
わたしが読み上げ、感想を述べると、
米山先生はしきりにうなずき、
その箇所が好きなのだと仰いました。
岩波文庫に入っている神谷美恵子訳の『自省録』を読んだのは、
四十年以上前のことになります。
それ以来読んでいませんでしたが、
こういう本は、
一度読んでそれでよしということはないはず。
というか、
ローマ皇帝で哲人であったひとの深い孤独のなかから紡ぎだされた珠玉のことばは、
時代を超えて、
だれのこころをも深く慰めてくれるようです。
米山先生の本にも引用されている『自省録』のことばを引きます。
文字の大きいワイド版岩波文庫から。
ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。
第二の人はそういう風になりがちではないが、
それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、
自分のしたことを意識している。
ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。
彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。
葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、
それ以上なんら求むるところはない。
あたかも馳場を去った馬のごとく、
獲物を追い終せた犬のごとく、
また蜜をつくり終えた蜜蜂のように。
であるから人間も誰かによくしてやったら、
〔それから利益をえようとせず〕
別の行動に移るのである。
あたかも葡萄の樹が、時が来れば新に房をつけるように。
(マルクス・アウレーリウス[著]神谷美恵子[訳]『自省録』ワイド版岩波文庫、
1991年、pp.64-65)
肝に銘じておきたいことばのひとつです。
ちなみに、引用文中の「追い終せた」は、
「追い果せた」と同じく、「おいおおせた」と読むのでしょう。
・モンク憂しまたありがたしモンク聴く 野衾