声としてのことば

 

人間は、いついかなるときも言語と手を切ることができない。
そしてその言語は、基本的にはどのような場合でも、話し聞く言語であり、
音の世界に属している。
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これまでに、
人間の歴史のなかで人の口にのぼったことのある何千という
――ひょっとして何万かもしれないが――
言語すべてのうちで、
文学をうみだすほど書くことに憂き身をやつした言語は、わずか百六にすぎない
ほどである。
したがって大半の言語は、
書かれることなど一切なかったことになる。
今日実際に話されているおよそ三千の言語のうち、
文学をもっている言語はたったの七十八である。
いったいいくつの言語が、書かれるようになるまえに、消滅したり、
変質して他言語になったりしたか、
いまのところ数えようがない。
活発に用いられていながら全然書かれることのない言語が、
現在でも何百とある。
これらの言語においては、
これという決め手になるような書きかたをだれも考案せずにきたからである。
言語は基本的には声に依存するものだということは、
いつの時代にも変わらない。
(ウォルター・ジャクソン・オング[著]桜井直文・林正寛・糟谷啓介[訳]
『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年、pp.23-4)

 

この本、目から鱗が落ちるような内容が多く、
おもしろく読んでいますが、
とくに蒙が啓かれる気がしたのは、
さいしょから文字によって書かれた文学と、
はじめは朗誦されていて、
のちにそれが文字で書き留められるようになった文学(『イーリアス』など)
では、
どこがどのように異なっているか、
その考察がとても分かりやすく、
納得します。
著者のオングは、
古典学、英語学の教授ではありますが、
もともとイエズス会士であることからしても、
言説の核に、
聖書の、
とりわけ「ヨハネによる福音書」の言語観が色濃くでているように感じられる
のも宜なるかなと思います。

 

・本を置く外は夕刻秋の風  野衾