神は如何なる形において存在するか、
一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいった様に凡《すべ》ての否定である、
これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、
もしこれといって捕捉すべき者ならば已《すで》に有限であって、
宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである(De docta ignorantia,Cap.24)。
この点より見て神は全く無である。
しからば神は単に無であるかというに決してそうではない。
実在成立の根柢には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いて居る。
実在は実にこれに由って成立するのである。
例えば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理はどこにあるのであるか、
我々は理其者を見ることも聞くこともできない、
しかもここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。
また一幅の名画に対するとせよ、
我々はその全体において神韻縹渺《しんいんひょうびょう》として
霊気人《ひと》を襲う者あるを見る、
しかもその中の一物一景について
その然《しか》る所以《ゆえん》の者を見出さんとしても
とうていこれを求むることはできない。
神はこれらの意味における宇宙の統一者である、
実在の根本である、
ただその能《よ》く無なるが故に、
有らざる所なく働かざる所がないのである。
(西田幾多郎『善の研究』ワイド版岩波文庫、2012年改版、pp132-3)
ドイツの神秘思想家であるニコラウス・クザーヌス(1401-64)の言説を踏まえながら、
西田は持論を展開していますが、
注解によれば、
クザーヌスの「反対の一致」をめぐって、
1919年に講演を行った、とのこと。
また、
クザーヌスには「神は肯定的な表現では捉えられない」
という思想がある、
とのことで、
西田のことを含め、西田とクザーヌスの関連について、
さっそく『絶対無と神』『随想 西田哲学から聖霊神学へ』の著者・小野寺功先生に連絡
(このごろよく電話をし、教えを乞うています)し、
教えていただきました。
ひとつ思い出したことがあります。
演出家の竹内敏晴のキーワードに「からだ」
がありますが、
教育哲学者の林竹二は、
竹内さんと付き合うようになって、
かなり時間がたってから、
「竹内さんの「からだ」はラテン語の「アニマ」に近いものがありますね」
と言ったというエピソードを、
竹内さんがどこかに書いていたはずですが、
小野寺先生の用語も、
先生の著書を何度も読んだり、
いろいろな話を伺いながら、
その用語にどんな意味をもたせ、どうイメージしておられるのか、
味わいながら、よく吟味し、輪郭を確かめていくのが、
遠回りのようであっても、
まちがいは少ない気がします。
・新涼の叢を立つ雀五羽 野衾