サンスクリット的世界

 

ちょっと話がそれるかもしれませんけれども、
昨年インドに行きましたとき、
私の通訳として助けてくれたインドの若い女の人に、川の水の流れをみて、
われわれは
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例ためしなし」
というと、言ったんですね。
また中国では
「ゆくものはかくのごときか昼夜をおかず」
と孔子が言ったという話をしたんです。
そうしたら彼女いわく、
「水は流れて行くけれども、その本質においてなんの変りもない」
と。
これには私も驚きました。
インドの人には、やはりサンスクリット的世界のとらえ方があって、
時間によって物ごとが流動して行くことを詠嘆しない、
事の本質はなにかというようにだけみるわけなんですね。
いつか彼女に、
この市原王の歌を訳してあげたら、
「風の音は、本質において空気の振動である」
と言うでしょうかねえ。
(大野 晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中公文庫、1990年、p.119)

 

引用文中の「市原王の歌」は、萬葉集1042番、

 

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも

 

この一つ松は幾代を経たことであろうか。
吹き抜ける風の音がいかにも清らかに聞えるのは、
幾多の年輪を経ているからなのであろう。(新潮日本古典集成『萬葉集 二』)

 

大野晋さんと丸谷才一さんとの対談は、
『源氏物語』に関するものを以前読んだことがあり、
とてもおもしろかったので、
今度はズバリ日本語に関するものを読んでみようと思って読み始めましたら、
こんな箇所がでてきて、
なるほどなぁと思いました。
引用箇所の発言は大野さんです。
ことばを覚え、ことばを操っているようにみえて、
それは驕り高ぶりかもしれず、
実のところは、
それぞれの言語構造の海に産み落とされ、
そこの水にふさわしい泳ぎを習い泳いでいる、
ということかもしれません。

 

・天高し逆さ宇宙の雲がゆく  野衾