漢和辞典愛が凄い!

 

漢字とは、時間と空間の長い旅を背負っているものであり、
漢和辞典とは、その旅の軌跡を物語る書物なのである。
……………
ただ、ぼく自身は、そういった革新的な漢和辞典よりも、伝統的な、古色蒼然とした、
性格の曖昧な漢和辞典の方に、より魅力を感じる。
なぜなら、
漢和辞典が秘めている長い長い物語は、
その曖昧さの中にこそ宿っているのであり、
ことばの辞典として洗練されればされるほど、
その物語は輝きを失ってしまうような気がするからだ。
そもそも、
漢和辞典とは、
「辞典」とはいうけれど、ことばの辞典ではないのだ。
あくまで、漢字の辞典なのだ。
(円満字二郎『漢和辞典に訊け!』ちくま新書、2008年、pp.50-51)

 

著者の円満字二郎さん、初めて知る苗字ですが、
「えんまんじ」と読むのだそうです。
なので、円満字が苗字、二郎が名前。円満、字二郎と区切ってはいけません。
そう読む人はいないと思いますが、
念のため。
このブログを読んでくださる方のため
というより、
嘉納治五郎を、
若いときに、嘉納治、五郎だと勘違いしていたわたし自身の備忘のために。
それはともかく。
円満字さんは1967年兵庫県生まれ。
大学卒業後に出版社に就職し、
そこで、
高校の国語教科書や漢和辞典などの編集に携わっておられた方。
17年間ちかく勤めた後、2008年からフリーになったと本の裏表紙に書かれてあります。
漢和辞典の編集にかかわっておられただけあり、
漢和辞典に対する愛がこの本には溢れており、感動すら覚えます。
漢字そのものへの愛はもちろんですが、
それと同時に、
いや、
ひょっとしたらそれ以上に、
漢和辞典に対して並々ならぬ思いがあるようです。
こういうひとが書いた本というのは、
その対象が何であれ、
なるほどと気づかされることが多く、
しかも、そこに愛がありますから、ふかく頷くことしばしばで。
巻末付録として
「独断! 漢和辞典案内」
まで付いています。
「オーソドックスなもの」「ユニークなもの」「入門者向けのもの」
「大型のもの」「歴史的なもの」
ここなど読んでいると、何冊か欲しくなってきます。
なんたって、
愛がハンパなく満ちていますから。

 

・天高し誇れるものの無かりけり  野衾

 

正しい限界

 

感情でもそうで、人を愛する愛情は非常に美しいものですが、
愛情がどうして破滅するかといえば、愛情は愛情によって破滅する。
愛が溢れて正しい愛の限界を踏みこえますと、愛は愛によって破滅するのです。
愛はいつのまにか憎しみとなり冷酷に変っていくのです。
何でもそうで人間のもっている能力は理性でも感情でもそれから学問でも、
正しい導きと正しい限界の中におかれておりませんと、
それ自身がそれ自身を破滅せしめる。
それを正しく導くものは先ほど言ったように信仰によるところの、
天より来るインスピレーション、
またわれわれの心の中に植えつけられているごく自然な、ごくシンプルな、ごく素直な
無邪気な願い――幼児の心とでも言いますか――
に私どもの理性を
――ここで言えば理性を正しい状態において理性の健全性をとりもどすのです。
理性は行きづまりから救出されれば、
理性は立派な理性として理性の力を発揮しますから
己れを導いてゆく力は十分発揮することができる。
(矢内原忠雄『土曜学校講義第六巻 ダンテ神曲Ⅱ 煉獄篇』みすず書房、1969年、p.77)

 

この講義が行われたのは、1943年3月20日。
まさに、第二次世界大戦真っ只中。
引用した箇所の発言は、その前後も含め、
戦争のことに直接触れてはいませんが、
戦争を地にしてなされた発言であるとみていいのではないか、
と思います。
矢内原は、
1951年に南原繁の後任として東京大学総長に選出され、
1957年まで2期6年間務めることになりますが、
たとえば上に引用した短いことばのなかにも、彼の精神は表れていると感じられ、
南原繁もそうですが、
キリスト教精神に則ったふたりが
引きつづいて東京大学の総長を務めたことに、
驚きを禁じ得ません。

 

・滑り台地獄の底の月見かな  野衾

 

母のクセ

 

手クセ足クセがあるように、こころのクセもありそうです。
目に見えるわたしのクセが、
わたしなりのものだと思っていたのに、
帰省した折になんとなく母の動きを見ていて、
ああ、おれに似ている、
と思ったことがありました。
小さいものが下に落ちていると、
拾わずにいられないクセだとか、行動の順番を厳格に守るだとか、
いろいろ。
このごろは、
目に見えないこころのクセまで、似ていると思うことがしばしばで。
かつて秋田の実家では、
正月、また、お盆ともなれば、
父の姉、妹、弟が、家族連れで泊まりに来たものでした。
わたしはそれが楽しみでしたが、
いま思えば、
父の妹たちが手伝い、祖母が元気だったとはいえ、
嫁である母の気苦労はいかほどであったかと想像されます。
あるとき、
母から直接でなく、
父から聞いたように記憶していますが、
正月、五月の祭、お盆の時期になると決まって、
母は、一週間、いや、二週間も前から、何の料理をどの順番に出そうかと、
寝不足になるぐらい、あれこれあれこれ思い悩み、
「なにをそんなに心配しているんだ。祖母もいるし、妹たちも手伝うんだから」
と父が諭しても、
母は相変わらず、心配していたといいます。
このごろわたしは、
土曜日、日曜日、それほど長い時間ではありませんが、
会社に出ることが多くなりました。
じぶんの仕事をこなすことがいちばん
ではありますが、
同時に、
来客をふくめ、
つぎの一週間の予定を静かにシミュレーションすることもだいじな仕事のうち。
ふと、
正月、五月の祭、お盆の前に、
眠りが浅くなった母の姿を思い浮かべます。
きのうは、
編集を担当している文芸評論のゲラ(本にするための組版を終えた校正刷り)
の精読を、
当初の目標どおり300ページまで終えました。

 

・ゲラ軽し一字一字に秋の暮  野衾

 

言葉の世界は「足し算」

 

2012年から行ってきた対談、鼎談、座談を編集し直し、
一冊にまとめた本が出来上がりました。
対談集 春風問学
2012年に行い、本の冒頭に収録されているドイツ文学者でエッセイストの池内紀さんは、
対談のなかで、
死によって周りから人がいなくなることを「引き算」、
それに対して、言葉の世界は「足し算」が可能な世界であると仰った。
幼いころに父を亡くされ、
母と兄も、
池内さんが若いときにお亡くなりになった。
その実体験からくるところのことばであったと思います。
出来上がった本を静かに繰っていると、
池内さんの仰ったことばが
ひしひしと胸に迫ってきます。
どきどき、でも、わくわく楽しく、親しく、お話を伺った長田弘さん、池内紀さん、
そして、桂川潤さんはもうこの世にいません。
でも、
本の上の文字をなぞっていくと、
お話しぶり、表情、どこで笑い、どのことばのところで間があったか、
などなど、
言霊となって蘇ってきます。
そのときどきのことばが、
時間の粒となり降り注いでくるようです。

 

・訪ね来て湖面の秋の寂しかり  野衾

 

カルビーのJagabee

 

コンビニで買い物をしていた折、レジ前の列に並んでいて、ひょいと横を見たら、
黄緑とベージュ色の爽やかなパーッケージが目に入り、
しゃがんで一袋手に取り、ほかのものといっしょにレジへ。
家に帰り、夕飯を終えた後、
おもむろに袋を開け、なかの捨て一句、
いや、
スティック状のものを口中に運ぶや、
じゃがいも本来の濃厚な味がぶわわわと広がりました。
それがカルビーのJagabee
でありました。
以来、
何度か買っていますが、
だいたい4:6の割合で食べています。
家人が6、わたし4。
ま、いっか、と。
それにしても。
Jagabee、美味い! 美味すぎる!
これを知ってから、ポテトチップスの袋に手が伸びなくなった。

 

・新米か母の手提げの重さかな  野衾

 

受け継がれる心

 

かくして、
「散る花ごとにたぐふ心」は「花摘みより帰りける女ども」の一人一人に「たぐふ心」
ともなったのであるが、
このようなことが可能であるのが古今集的表現の特色なのである。
窪田空穂の『古今和歌集評釈』が、
「詞書を添えると、恋の歌となって、女性に対しての淡い憧れ心を、
隠喩《いんゆ》で現したものとなって来る。
(中略)
人事と自然とを一つに融かして、区別をつけなかったこの当時の歌風が思われる。
区別はさすがに付ければ付くのであるが、付けようとしないところに、
そうした歌風に対しての誇りもうかがわれる。
詞書があるとないとで、歌の内容が全く変って来るというこの事は、
時代の特質である」
と言い切っているのはさすがと言うべく、
春の部に入っているから恋の心を抜いて純粋に春の歌として鑑賞しなければならない
というような窮屈な理解が最近は多いが、
これでは、古今集和歌の「みやび」は理解できないと思うのである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』講談社学術文庫、2019年、p.666)

 

「たぐふ心」とは、一体になる心、また、連れ添っていく心、のこと。
ここで評釈されている歌は、
凡河内躬恒の

 

留《とゞ》むべき物とはなしにはかなくも散《ち》る花ごとにたぐふ心か

 

その詞書が
「弥生《やよひ》のつごもりの日、花摘《つ》みより帰《かへ》りける女どもを見てよめる」

 

片桐さんの通釈は、
「三月の最終にあたる今日となっては、
もう花の散るのを止めるということはあり得ないので、
はかなく散ってゆく花の一片一片に連れ添ってゆく我が心であるよ。
そんな花を持って帰る一人一人に連れ添ってゆく我が心であるよ。」
我が心。
連れ添ってゆく我が心。
変幻自在のこゝろのありよう。
なるほどと合点がいきました。
ほかの古典もそうですが、
現代語に訳されたものを読んで、ことばの意味を知るだけでは、
いまひとつ、味わうところまではなかなかたどり着くことができません。
たとえば、
『万葉集』なら、このブログでも幾度か取り上げた伊藤博さん、
『古今和歌集』なら片桐洋一さんのものを読むことにより、
歌が作られた背景を知り、
また、その歌が読み継がれてきた時代的背景、読みの歴史を知ることで、
歌を、文を、
幾分でも味わうことができるようになる気がします。
わたしは、
伊藤博さん、片桐洋一さんのものに拠りましたが、
ほかの方の評釈もいろいろ出ていますから、
そこは、出版社のコメント、読者のレビューなどを参考にしながら、
それぞれの勘と好みで選ぶといいように思います。

 

・天高し大宮行きが参ります  野衾

 

『男の生活』

 

敬愛する中条省平先生が、
『マンガの教養 読んでおきたい常識・必修の名作100』(幻冬舎新書、2010年)
のなかで、
「泥くさいショーモナさに噴きだす」と絶賛していたので、さっそく読んでみた。
中崎タツヤ[著]『完全版 男の生活』(白泉社、2004年)

 

42ページ目「完ペキの男」
一コマ目。
ジャケット姿の編集者らしき男が、目の前の向き合う男に笑顔で話しかける。
テーブルにコーヒーカップが置かれているから、
場所はどうやら喫茶店。
「中崎さんてどんな人なんですか?」と編集者。
それに答えて、ウソかホントか、割とイケメンの中崎が
あっさりと、
「ボクってホラ漫画なんか描いててけっこう評価されてるわけだけど、
一所けんめいやってんじゃないのね」
二コマ目。
中崎がウソかホントか、
「まあ、ウチが病院なんかやってるし、
ボクも医師免許もってて生活のこと考えなくていいでしょ」
それを聴いていた編集者らしき男のひたいに汗。
三コマ目。
調子に乗った中崎が、
「それにこの顔でしょ。出身は麻布なんですけどね」
編集者の顔に怒りのしるし。
四コマ目。
さらに調子に乗った中崎が、
「学生のころはよくケンカもしたけど、負けることはめったになかったなあ」
編集者の肩、テーブルに置いた握りこぶしが小刻みに震え。顔には怒りマーク二つ。
五コマ目。
「ボクのことイヤな奴って思ってるでしょ」
編集者らしき男の目はすわっている。
ここで中崎が意外な発言。
六コマ目。
「でもチンポが小さいんですよ」
それを聴いた編集者らしき男の目が、文字どおり、・・
そして最後、
七コマ目。
中崎から顔を逸らし、うしろ向きになり泣いているような編集者らしき男がポツリ
「…よかった…」
中崎、うつむき加減に「よかったはないだろ」

 

文字だけだと、このマンガのショーモナさがうまく伝わりませんが、
実に、
なんとも爆発的にショーモナくて、
敬愛する中条先生がおっしゃるとおり、
休日この箇所を読んでいて思いっきり噴き出しましたら、
ちかくにいた家人に
「またーーーっ!」
って言われた。
気持ちを落ち着かせ、
すこし静まった脳裏に浮かんだのは、敬愛する中条先生の、秋の湖面のような端正な顔。
あの中条先生が、
このマンガを、
どんな顔で読んだのかと思った
ら、
想像するだに、そちらのほうが面白くてぶっ飛び破壊的で、
噴き出しそうになりました。

 

・さびしさを住み処とすなり秋の雲  野衾