このごろの朝読は、矢内原忠雄の『土曜学校講義 五』の「ダンテ『神曲』Ⅰ」。
みすず書房から刊行されたは1969年
ですが、
講義そのもの(地獄篇、煉獄篇、天国篇の全体で94講)
は、
1942年4月から1944年12月まで。
戦時中のことです。
戦時下において、
つどう人びととともにダンテの『神曲』を読み、
講義していたというだけで凄いと思いますが、
語り口がなんとものびのびしており、
読んでいると、
戦時下であることを忘れてしまいそうになります。
さて、
わたしが注目したのは、
講義で用いている日本語訳。
矢内原は、
第一講で、日本語の全訳は、中山昌樹のものと山川丙三郎のものがあり、
山川訳の方がいいけれど、
山川訳は非常に少なくて購入が難しいだろうから、
便宜上中山訳を使う、
と語っている。
そういうことで講義は始まりますが、
矢内原は、ことあるごとに、しばしば山川訳を紹介しています。
戦後になって山川訳は岩波文庫に入りましたが、
岩波文庫には、
山川訳のもともとの版である警醒社版の巻頭にあった新井奥邃のことばが抜けている。
わたしの記憶違いでなければ、
岩波書店は、
岩波文庫に山川訳のダンテ『神曲』を入れる際、
作家の正宗白鳥の言を入れて外したのではなかったか。
ところで、
矢内原が講義のなかで盛んに引用する山川訳、
岩波文庫にはまだ入っていませんから、
矢内原が読んでいたのは、
奥邃のことばが巻頭に収録されている警醒社版とみて間違いないのではないか。
いまのところ、
講義のなかで奥邃に触れてはいませんが、
天国篇までは三巻ありますから、
どこかで新井奥邃の名前が出てくるかもしれません。
出てきたら、
このブログでそのことを報告したいと思います。
が、
仮に出て来なくても、
矢内原が警醒社版のダンテ『神曲』を読んでいたのはまず間違いないのだし、
だとすれば、
謹厳実直、
読み巧者の矢内原が奥邃のことばをいかに読んだか、
想像するだに楽しくなってきます。
・何かあるか何もない日の夜長かな 野衾