漱石の言葉

 

わたしが本を読み始めたきっかけが、
小学四年生のときに母が買ってくれた夏目漱石の『こころ』であることは、
これまで書いたり、話したりしてきましたが、
縁と言いますか、
ライフワークとして夏目漱石を読み、研究して来られた
斉藤恵子先生の『漱石論集こゝろのゆくえ』の見本本が本日、
会社に届く予定になっています。
仕事ではありましたが、
個人的にも、
わたしにとりまして夏目漱石がどういう存在だったのかを振り返る、
いい機会になりました。
書名にある「こころ」を「こゝろ」としたのは、
いまは新仮名で「こころ」と表記されているけれど、
初版では「こゝろ」でしたから、
あえて「こゝろ」とすることで、
『  』を外しても、漱石の代表作である『こゝろ』と分かるし、
それが今後どんな風な読み方をされていくのか、
またもう一つ、
そもそも人間のこころが、
どういうものであり、
どうとらえられ、
AIの時代を迎えたいま、どこに向かおうとしているのか、
そんな二様の意味を込めてのことであります。
いまでも人気のある漱石ですが、
仕事がら、
つらつら思い出しているうちに、
いろいろし始めたことが、それが何であっても完成することはない、
というような文言が何かの小説に確かあったような気がしてネットで検索したら、
ありました。

 

世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。
一遍起った事は何時までも続くのさ。
ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

 

『道草』にでてくることばでした。
漱石の「片付く」を、
わたしのこころを含む身体のバイアスは「完成」と加工し、
記憶回路に落とし込んでいましたが、
まぁ、
当たらずとも遠からず
のことばとして覚えていたようです。
ところで、
いまこのことばを改めて眺めてみると、
共感する部分もありますが、
反発するこころももたげてきて、
どういうことかといえば、
片付かないことの妙味と、諦めと、願いが、
一日一日の暮らしにはあるじゃないか、そこが幽かに面白いのではと感じます。
すっかり片付けようとしない、片付いてしまわないところに、
赦しがあり、
謙虚の教えが隠されているようにも思います。
斉藤先生の本の第22章は
「『こゝろ』と聖書の世界」
先生が聖書をどう読んできたのかが分かって面白かった。
仕上がりがたのしみ、たのしみ!

 

・この年の佳きこと算へ冬支度  野衾