受け継がれる心

 

かくして、
「散る花ごとにたぐふ心」は「花摘みより帰りける女ども」の一人一人に「たぐふ心」
ともなったのであるが、
このようなことが可能であるのが古今集的表現の特色なのである。
窪田空穂の『古今和歌集評釈』が、
「詞書を添えると、恋の歌となって、女性に対しての淡い憧れ心を、
隠喩《いんゆ》で現したものとなって来る。
(中略)
人事と自然とを一つに融かして、区別をつけなかったこの当時の歌風が思われる。
区別はさすがに付ければ付くのであるが、付けようとしないところに、
そうした歌風に対しての誇りもうかがわれる。
詞書があるとないとで、歌の内容が全く変って来るというこの事は、
時代の特質である」
と言い切っているのはさすがと言うべく、
春の部に入っているから恋の心を抜いて純粋に春の歌として鑑賞しなければならない
というような窮屈な理解が最近は多いが、
これでは、古今集和歌の「みやび」は理解できないと思うのである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』講談社学術文庫、2019年、p.666)

 

「たぐふ心」とは、一体になる心、また、連れ添っていく心、のこと。
ここで評釈されている歌は、
凡河内躬恒の

 

留《とゞ》むべき物とはなしにはかなくも散《ち》る花ごとにたぐふ心か

 

その詞書が
「弥生《やよひ》のつごもりの日、花摘《つ》みより帰《かへ》りける女どもを見てよめる」

 

片桐さんの通釈は、
「三月の最終にあたる今日となっては、
もう花の散るのを止めるということはあり得ないので、
はかなく散ってゆく花の一片一片に連れ添ってゆく我が心であるよ。
そんな花を持って帰る一人一人に連れ添ってゆく我が心であるよ。」
我が心。
連れ添ってゆく我が心。
変幻自在のこゝろのありよう。
なるほどと合点がいきました。
ほかの古典もそうですが、
現代語に訳されたものを読んで、ことばの意味を知るだけでは、
いまひとつ、味わうところまではなかなかたどり着くことができません。
たとえば、
『万葉集』なら、このブログでも幾度か取り上げた伊藤博さん、
『古今和歌集』なら片桐洋一さんのものを読むことにより、
歌が作られた背景を知り、
また、その歌が読み継がれてきた時代的背景、読みの歴史を知ることで、
歌を、文を、
幾分でも味わうことができるようになる気がします。
わたしは、
伊藤博さん、片桐洋一さんのものに拠りましたが、
ほかの方の評釈もいろいろ出ていますから、
そこは、出版社のコメント、読者のレビューなどを参考にしながら、
それぞれの勘と好みで選ぶといいように思います。

 

・天高し大宮行きが参ります  野衾