小学校で詩を習って以来、詩を、文学ジャンルの一つ、
ぐらいにしか考えてきませんでしたが、
イーリアス、アエネーイス、またこちらの、古事記、万葉集、古今和歌集、
お手本の詩経、杜甫などを読んできて
思うのは、
いまでこそ文学ジャンルの一つかもしれないけれど、
春になると蛙、うぐいす、
夏になると蟬、
秋になれば、
実際は鳴かないのに、蚯蚓が鳴くように、
にんげんがにんげんであるためには、詩をうたってきたのだろう、
ということ。
詩が有していた本来の意味、意義は、
文字の発明や科学技術の進歩などにより、
時代とともに細分化され、
希薄化、拡散したかもしれないけれど、
失われたわけではなく、
ひょっとしたら、
いわゆる詩よりも、いろいろに形を変え、今に至るまで残ってきたのではないか。
クラシック音楽をはじめ、ジャズやロックなど古今東西の音楽、
さまざまな歌、民謡、童謡、カラオケ、
ありがとう、こんにちは、いただきます、さようなら、
等々のあいさつだって。
ほとんど、
ことば本来のありように近く詩があった、
いやむしろ、
ことばは詩だった。詩がことばだった。
生きられる喜びの表現として、
ふかくこころの通ったコミュニケーションツールとして。
そんなふうな想念がもたげ始めたのは、
もともと詩は口承のものであり、
ということは、
記憶に深く関係していただろうということ。
字を読まなくても、読めなくても、字を知らなくたって、
記憶さえあれば。
記憶の力。
ばんばごだーぢ あーぢまれ。
意識しないでも記憶することはあるけれど、忘れぬように意識しようとすれば、
きたないものよりも、きれい、醜いものよりも、美しい
と感じられるものを凝視し、
ことばを短く、ならべ、そろえ、韻を踏む。
そのほうが覚えやすい。
記録しなくても、
たいせつなものを記憶によっていつでも呼び出し、
諳んじられる。
諳んじることで、だいじなことが確認でき、そこに喜びがある。
感動を伴う世界の定義。
そんな興味と関心をもちつつ、
これから『文心雕龍』『詩品』を読もうと思います。
・休日の勤め閑あり秋の蜘蛛 野衾