編集者は未来の読者を幻視する

 

かくして伝えられてきたおびただしい言説、そのなかから何を文学として採録するか。
それはもっぱら消去法で語られ、経・子・史を除いた、
集部に当たるものがのこされる。
ただし文学とは何かという明晰な定義は見られない。
強いて定義らしきものを求めれば、
歴史書は事柄の記録であるから文学と見なさないとしながらも
「讃・論」「序・述」のみは『文選』に収める理由を説いた
「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」、
それだけが文学を説明しているに過ぎない。
内容と表現の双方を兼ね備えていることを言うのではあるが、
その前に
「辞采を綜《す》べ緝《あつ》む」「文華を錯《まじ》え比《なら》ぶ」
と文彩への配慮を語っているのを見れば、
強調したいのは内容よりも表現の雕琢のほうであるかに見える。
思想の書を排除する理由として言う
「意を立つるを以て宗《むね》と為し、文を能くするを以て本《もと》と為さず
(内容にかまけて書き方をなおざりにする)」というのも、
表現の重視にほかならない。
要するに
たとえ内容がすぐれていても、
文学たるためには言葉をいかに美しい言葉に練り上げるか、
表現を洗練することこそ心しなければならぬというのが、昭明太子の立場であった。
今日においても文学作品について語る時、
ややもすれば内容の方に傾きがちであるけれども、
この文学観は文学の本質とは何か、改めて考え直す契機となる。
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹[訳注]
『文選 詩篇(六)』2019年、岩波文庫、pp.440-441)

 

『万葉集』における大伴家持、『文選』における蕭統(昭明太子)、
『文鏡秘府論』における空海に共通するのは、
編者としての立ち位置であると思われます。
著作物を読者につなぐのが編集者の仕事であるわけですが、
その場合の読者とは、
現在時点における読者とは限らないのでしょう。
『万葉集』は、
家持が編集に携わらなければ、
今読めるものとはちがったものになっていたかもしれません。
『文選』には蕭統の詩は入っておらず、
しかし蕭統が、
明確な編集意図のもとに取捨選択し並べてくれたおかげで、
千年を超えて読み継がれるものになったのだと考えられますし、
『文鏡秘府論』に収められた空海の序文には、
わたしが読んだのは、
興膳宏さんの翻訳を通してですが、
当時の中国における文学理論のエッセンスを日本にもたらすことの喜び
が溢れていると思いました。
時代が変り、
自前で電子書籍化したり、
自前で紙の本をつくることができるようになりましたが、
そういう時代であればこそ、
編集者の仕事の意味と意義が鋭く問われている気がします。
編集者の立ち位置というのは、
書き手と読者の二者に対し、
三角形のもう一つの点であり、
そのことによって、未来を幻視し、
まだこの世に生まれていない読者へつないでいこうとする仕事、
大いなる企てであるとも感じます。

 

・編集者過去と未来の秋を編む  野衾