そんなには磨けない

 近所の歯医者に行った。治療もするが、大事なのは日々のブラッシングで、それをないがしろにすると、治療してもイタチごっこになるから、ブラッシングの目標を80パーセントに設定するという。やった方はわかってくれると思うが、歯磨きが80パーセントできているというのは相当の数字だ。仕方がないので、今日こそはという勢いで、朝、1時間ほど間を置いて2度に分けて歯を磨き、指示通りに歯間ブラシもつかい、これで文句ないだろうぐらいに準備万端ととのえ、ピカピカ状態で歯医者に向った。それなのに、あの甘ったるいピンクの変なゲル状の液体を歯にまぶされて検査したら70パーセントしか磨けていないという。そんなはずないだろう。よく見てくれよ! 指示通り歯間ブラシもつかって時間かけて磨いたんだからさ。「そう、おっしゃられても、磨けてないものは磨けていませんから。ほら、この通り」鏡まで見せてくれる始末。どれ。ん。なるほど。そうか。俺の負けか。確かにピンクの色が残っている。でもさあ、80パーセントってのはちょっと無理じゃないの。毎日そんなに丁寧に細かいところまで磨いていたら、それだけで1日が終わっちまうよ。とは言わなかった、言えなかったが、まったく嫌になる。「道具が増えて恐縮ですが、歯間ブラシのほかに、こういうブラシもありますから、これをつかってみてはいかがでしょうか」だって。だったら最初に言ってくれよ。あ〜あ。

収穫時期

 九月に入ったと思ったら急に涼しくなり、八月の暑さはいったい何だったのかと呆れるぐらいのものだが、この涼しさは農家にとってはちょっと、どころか、相当、頭の痛いところだろう。
 この時期の日照時間は米一粒一粒の実の入りに大きく影響する。収穫の日取りをいつにするかは重要課題だが、誰かが教えてくれるわけではなし、長年の経験によってしか判断できない。
 理屈としては、米粒がぱんぱんにふくれ、稲穂がこうべを垂れるほどに実ったときが収穫のベスト・デイ、ベスト・ウィークなわけだが、事はそんなにうまく運ばない。あともう少し、あともう少し実らせようと思っているその矢先に台風が直撃したりして、元の木阿弥。実った稲穂ほど雨風に弱くべったりと倒れ込む。こんなんだったら、もっと早くに刈り入れておくんだった、となる。この辺の判断が難しい。知ったかぶって書いているが、父からの受け売りです。毎年この時期になると、秋田の父から、何日から収穫するとの報告がある。

旅行記

 連日のように出版の問い合わせがある中で、最近目立つのが旅行記を本にしたいというもの。それもなぜか海外旅行に関するものがほとんど。というか全部。文化の違い、習慣の違いにもろにぶつかるから印象深くこころに刻まれるのだろう。
 昔から旅行記、紀行文のたぐいは1ジャンルをなすぐらいだ。現代では、全く旅行をしたことがない(海外はともかく)人というのはひとりもいないだろうから、理屈としては、人の数だけ旅行記ができることになる。
 個人的な趣味を言わせてもらえば、天気ばかりの旅行記(それじゃ本にならないか)とまでは言わないけれど、一日の記録を割りと淡々と記したもののほうが好きだ。そのほうが読んでいて想像力を膨らませ、まだ見ぬ国で自由に遊べる。旅行記を出したい方は、そういう読者サービスも頭の片隅において執筆して欲しい。体験したことを全部書くよりも、抑え気味のほうがかえって親切な旅行案内になっていることもある。

全巻読破

 「春風倶楽部」第13号特集のテーマは「全集の魅力」。『新井奥邃著作集』がめでたく全巻完結したこともあって、そう決めた。
 若い頃は、わたしもいっぱしの読書家きどりでかなりの数の全集を持っていた。最初の巻からはじめて半分超えた全集もあれば、まともに1冊も読まないものもあった。宝の持ちぐされで、今も持っているものもある。途中で古本屋に売ったものもいくつか。
 全集を買い、片っ端から読もうとして挫折したのも今から思えば若気の至り、恥ずかしくもあり、ひとり苦笑せざるを得ない。そのように、あまり華々しくない全集人生のなかで、わたしが最初の巻から最後の巻まで、義務感に駆られてではなく日課として読んだ全集がある。当時、国土社から出ていた『斎藤喜博全集』がそれだ。
 林竹二のような授業をしたくて教師になったのに、毎日、砂を噛むような授業しかできずに不甲斐なく帰宅するわたしを、斎藤さんの文章はどれだけ勇気づけてくれたことだろう。それこそ手帳を繰るように読んだと記憶している。それでも授業は相変わらず。なかなか納得できるところまではいかなかった。ところが、斎藤さんの言葉には他では得られない力がこもっていて、毎日読みつづけた。最終巻が読み終わる頃、ようやくぽつぽつと生徒に届くような授業ができるようになった、と言いたいところだが、そんなにうまくはいかなかった。当時のわたしとしては、日々、苦労の連続だったから、全巻読破できたのだったろう。
 ところで斎藤さんの全集は、最初の全集が出た後(いずれも生前に出ている)で書かれたものが第?期としてまとめられ、出された。それももちろん買って読み始めたが、こちらのほうはどういうわけか全巻読破とまでは至らなかった。

いい本について

 いい本は売れないと言われるようになって久しい。というか、昔から言われてきたようだ。最近それが甚だしい。われわれもそれにならって、いい本は売れない、いい本は売れないと、ねじれたプライドをこころに秘め、馬鹿の一つおぼえのように繰り返している。暑いときに「あちー」と言ったからといって涼しくならないのと同様、いい本は売れないと唱えたからといって、売れないいい本が売れるようになるわけではない。でも、言う。周りから、春風社はいい本を作るとお誉めの言葉をいただく。誉められて嬉しくないはずはないけれど、いい本は売れないことになっているから痛し痒しで、お誉めの言葉が空しく響くこともある。
 そもそも、いい本というのはなんだ。読んでためになる本。泣ける本。笑える本。泣けも笑えもしないし、ためにもならないが、なんだかしらないが、いい本。いずれにしろ、いい本というのは、読んで初めていい本だとわかる。読む前からいい本だとわかる人は誰もいない。あたりまえ。しかし、ここが最大の問題だ。
 というのは、どうも最近は、読む前から世の人々に何かが伝わっていないといけないようなのだ。その何かを確認するために読む行為があるとでもいうような。本づくりは難しい。ますます難しくなってきた。読んでもらえば必ず読者に何かが伝わるはずの本を、どうやったら手にとって読んでもらえるか。ここが思案のしどころで、宣伝広告費をばんばん掛けられる出版社(そういう出版社があるのが不思議)ならいざ知らず、そうはできないところが小社のアキレス腱。工夫のしどころがここにある。

朝型夜型

 一日の重みが暮れて、のほほんと紙に向い今日一日あるいた距離をかぞえてみたり。この日記を、このごろは夜、書くことが多くなった。下書きだけだけど。下書きだけでも書いておけば、朝、起き立てのぼーとした頭でも機械的に入力するだけだから、うんうん唸って書くこともない。朝と夜では、同じ一日の記述でも、書きっぷりに違いが出るようだ。
 夜はジャズを聴けても朝から聴く気にならないようなものだろうか。違うな。夜はサザンの歌が歌えても、朝から歌う気にならないようなものか。これも違う。ともかく、一日が終って、その日の終りに一日を振り返るのと、夜の眠りを挟んで、朝、目覚めて前日を思い出すのとでは微妙に何かが違っている。夜に書いた文章を、朝、入力しながら手を入れているうちに朝型の文章(そんなのあるかどうかはわからないけれど)になっていることもある。

寝溜め

 土曜、日曜と、食事、トイレ、買物、掃除、体操、入浴以外はとにかく寝られるだけ寝た。夏の暑さのせいもあってか、このごろ少々バテ気味で体とこころに力が入らない。意識して休養を取るようにしている。栄養あるものを食べ、ゆっくりと休む。つまり、寝る。春眠もそうだが、この季節の眠りもなかなか心地好く起きるのがもったいない。寝溜め、食い溜めはできないことになっているけれども、過食、過眠というのでなく、適度な食事と睡眠は何と言ってもエネルギーの源だ。