気分上々

 『イーリアス日記』の著者・森山康介さん来社。『新井奥邃著作集』完結を祝ってくださり、専務イシバシ、武家屋敷、わたしの三人、すっかりご馳走になった。場所は清泉。藤原紀香が二度訪れたという伝説の(?)あの清泉だ。鰻料理中心のお店で、昼飯時に野毛坂を下り鰻を食べに来ることはあるが二階に通されたのは初めて。森山さんが予約を入れてくれていた。
 創業六十年を超す老舗の部屋はしっとりと落ち着いていて、話がはずみ、箸もすすむ。森山さん、今年はオデュッセイアを読んでいるとか。会社勤めを果たしながらのことで、恐れ入る。なんたってイーリアスにオデュッセイアだもの。それも原典で。世界は広い。森山さんが初めて会社を訪ねてこられたときのことが今も忘れられない。『ダンテ神曲原典読解語源辞典』を部屋の真ん中の木のテーブルに広げページを繰っていた。版元として、大学の研究者でなければまず読みこなせないだろうと思っていたが、そうでないことをまざまざと見せつけられた。……
 いつのまにか楽しい時が過ぎ、帰る時刻となって立ち上がった瞬間、ほんの少しだが甘い香りが鼻先をくすぐった気がした。階段を下りて靴を履き、女将さんに「藤原紀香さんもあの部屋で食事をされたのですか」と訊くと、「はい」。そうだったのか。すっかりいい気分になって外へ出た。森山さんのおかげです。ごちそうさまでした。

恋愛

 知人と話していたら、「あの娘は暗い恋愛をしているかもしれない」と真面目な顔で言うから、大笑いしてしまった。恋愛に明るい暗いの区別があったのか。あるとして、明るい恋愛というのはどうも信用できない。切実になればなるほど、明るさとは程遠いものになりがちだろう。その意味で、暗い恋愛は本気に近いかもしれない。知人には、そんなふうに言わなかったけれど。
 夜、テレビを点けたら、トンネルズの番組に石田純一が出ていた。「新・食わず嫌い王決定戦」。相手は倖田來未。冒頭、石橋が石田に「最近、恋をしていますか」と訊くと、石田は石田らしく「恋は、ほら、一人でもできるから。愛は二人で作るものだけど」と言った。なるほど。

深呼吸

 このごろどうも空気が薄い。子供のころ、あんなにいっぱいあった空気が空に拡散してしまったのか、地球温暖化とやらでそうなってしまったのか分からないが、空気が薄くなったことは事実だ。それとも、わたし自身の問題か。いずれにしろ、深い森のなかへ入って深呼吸する必要がありそうだ。好きな長田弘の詩集に『深呼吸の必要』がある。

くりん

 先日、カメラマンの橋本さんがTさんという若い女性を伴って来社。前からの知り合いかと思いきや、そうではなく、現像所で働く知人の紹介で、その日に初めて会い、そのまま一緒に来たとのこと。
 Tさんは広島の方で、休みを利用し1週間ほど東京に出てきたという。絵を描き、俳句や短歌をものし、立体の作品も創るそうで、それらの作品をいずれ本にしたいと言った。橋本さんはいつもの橋本節で持論を力説、表現者たるもの、10年に1冊は自費で本を作るべきなのだ。本当につくりたいもの、生まれたがっているものを表現者は生み出す義務がある、云々。くりんとした目を大きく見開き、Tさんうなずいた。
 ところでTさんのその日の髪型、身につけている服、アクセサリーはアメリカ・インディアンの娘を彷彿とさせたので、その印象を告げたらTさん興味を示した。『アメリカ・インディアン悲史』の話をすると、すぐに買って読みたいと言う。別れた後で彼女がつくるホームページを見たら、あの日の帰りさっそく買ったと書いてある。標準語で話していてもちょこっと語尾に出る広島弁がとても可愛く、そのことがさらに彼女のルーツがインディアンであるとの認識をわけもなく倍化させた。

カネの時代の豊かさ

 小社から『ナショナリズムと宗教』を刊行している中島岳志さんが、彼のブログで『新井奥邃著作集』を取り上げてくださった。ありがたい。しかも、ポイントを押さえつつ、誰もが興味を持てるよう分かりやすく紹介してくれている。奥邃の文章は漢文調で今の人には難しいけれど、中島さんの解説により動機づけされながら、ぜひ奥邃の文章に就いてもらいたいと思う。
 今の時代はカネ、カネ、カネ。法律に触れる犯罪を犯したにもかかわらず、「ぼくを嫌いになったのは、ぼくがむちゃくちゃカネを儲けたからでしょう。カネを儲けることは悪いことですか」とカメラの前で居直る輩もいる。傲慢にもほどがある鼻持ちならない発言だが、先行き不安でつまらない日常を考えれば、あながち的外れとばかりは言えないかもしれない。ただ、いくらカネを積んでも(それほどのカネを見たことはないけれど)、額が大きくなればなるほど、虚無の臭いは消せない。
 聖書の中に「貧しい人は幸いである」の言葉があるが、奥邃は貧しさの中の豊かさを本気で生きた人だ。こんなエピソードが残されている。奥邃の住む謙和舎に泥棒が入った。ところが盗むに値するものが何もない。気の毒に思った泥棒が、持っていた物をその場に置いていった。また、何をして暮らしを立てているのか不審に思った警察がやってきて、奥邃に「あなたは何で生きているのですか」と尋ねた。すると奥邃は、「だれも殺すものがいないから生きているのです」と答えたそうだ。
 奥邃は墓も作るなと言ったぐらいの人だから、本を残すことなど思いもよらなかっただろう(謙和舎を訪れた人に配ったパンフレットには「投火草」と書かれたものもある。読んだら火にくべろ)。しかし、今の時代がカネ、カネ、カネの時代であるとするならば、奥邃を読むことで力を得、つまらない世の中を少しでも楽しく豊かに暮らしたいと思うのだ。

不思議な魅力

 コール先生と一緒に『新井奥邃著作集』を監修してくれた工藤正三先生から何度か聞かされたことで印象に残っている言葉がある。「これだけ近づいたかなと思うとまだ遠い。さらに近づいたかなと思うと、また遠くなる」奥邃についての感想だ。
 工藤先生の親戚筋にあたる工藤直太郎氏は2000年に106歳で亡くなられたが、謙和舎で奥邃と共に暮らしたこともあり、青山館という出版社(今はない)から『新井奥邃の思想』、『内観祈祷録』(奥邃のInward Prayerの翻訳)を上梓している。工藤先生は、2冊の本の編集・出版に関わる頃から奥邃の文章に親しんで来られた。奥邃読みとしては第一等の先生がふと洩らした言葉だけに、不思議な気がしたものだ。
 斯界の泰斗、谷川健一先生や飯島耕一先生も奥邃の不思議な魅力を感得されたようだ。その魅力は、現代とこの先の世界を照射している。まずは、直に奥邃の文章に触れてほしい。