カネの時代の豊かさ

 小社から『ナショナリズムと宗教』を刊行している中島岳志さんが、彼のブログで『新井奥邃著作集』を取り上げてくださった。ありがたい。しかも、ポイントを押さえつつ、誰もが興味を持てるよう分かりやすく紹介してくれている。奥邃の文章は漢文調で今の人には難しいけれど、中島さんの解説により動機づけされながら、ぜひ奥邃の文章に就いてもらいたいと思う。
 今の時代はカネ、カネ、カネ。法律に触れる犯罪を犯したにもかかわらず、「ぼくを嫌いになったのは、ぼくがむちゃくちゃカネを儲けたからでしょう。カネを儲けることは悪いことですか」とカメラの前で居直る輩もいる。傲慢にもほどがある鼻持ちならない発言だが、先行き不安でつまらない日常を考えれば、あながち的外れとばかりは言えないかもしれない。ただ、いくらカネを積んでも(それほどのカネを見たことはないけれど)、額が大きくなればなるほど、虚無の臭いは消せない。
 聖書の中に「貧しい人は幸いである」の言葉があるが、奥邃は貧しさの中の豊かさを本気で生きた人だ。こんなエピソードが残されている。奥邃の住む謙和舎に泥棒が入った。ところが盗むに値するものが何もない。気の毒に思った泥棒が、持っていた物をその場に置いていった。また、何をして暮らしを立てているのか不審に思った警察がやってきて、奥邃に「あなたは何で生きているのですか」と尋ねた。すると奥邃は、「だれも殺すものがいないから生きているのです」と答えたそうだ。
 奥邃は墓も作るなと言ったぐらいの人だから、本を残すことなど思いもよらなかっただろう(謙和舎を訪れた人に配ったパンフレットには「投火草」と書かれたものもある。読んだら火にくべろ)。しかし、今の時代がカネ、カネ、カネの時代であるとするならば、奥邃を読むことで力を得、つまらない世の中を少しでも楽しく豊かに暮らしたいと思うのだ。