文藝春秋

 ホヤッキーことクボッキーが、きのう、「早稲田文学」のことを書いていたので思い出したことがある。「文藝春秋」。田舎の少年(わたし)が初めてその雑誌を目にしたのは高校生の時。一年生だったと思う。同じクラスの男子生徒がその雑誌を持ち歩いていた。教科書以外にはほとんど本を読まずに義務教育を終えたわたしが、夏目漱石とドストエフスキーを読み、本ておもしれぇ〜なぁ〜と、ようやく感じ始めていた頃だったから、肩までくる長髪をなびかせ「文藝春秋」を持ち歩く彼は、わたしにとってまるで別人種、異星人のようなものだった。ちなみに、わたしのいた中学では、男子生徒は坊主頭が原則だったから、高校に入り、髪の毛がやっと少し伸び始めていたわたしの目に、長髪と「文藝春秋」はセットで驚異の的として焼き付いた。彼、背はさほど高くなかった。それなのに声は低音で、秋田弁交じりでない、ちゃんとした標準語を話していた。友達になりたいとも思わなかった。ただ、遠巻きに眺めていただけだ。体育の時間は体操着に着替えなければならない。「文藝春秋」が気になって、目で彼を探した。いた! 「文藝春秋」を持たない彼は、なりは小さくひ弱そうなのに長髪だけが目立ち、見ていて、なんだか物足りない感じがした。「文藝春秋」は「文藝春秋」を持つことで真っ当になるのかと妙に腑に落ちた。ホイッスルが鳴った。