スーパーリンガ

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 ふむー。インドのものはもっと抽象化され、ちょっとユーモラスでもあるのに、わが日本のものとなると…
 毎度ここに添付している写真、その日の気分で、本文とほとんど関係無く載せている。が、毎日となるとこれがなかなか大変、社員から提供してもらうことにした。今日のは、そのうちの1枚。

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変化

 気功教室に参加し自宅でも毎日やるようになって2ヶ月が過ぎた。百日練功まではまだ少し間があるが、このごろ自分でも体力が戻ってきたなあとうれしく思っている。
 怪我と病気のあと、大声で笑うことがいつの間にか無くなっていたのだが、先日、教室で先生がにこやかな微笑みを浮かべながら腕と肩をぶらぶらさせる姿を見、思わず、大声で笑ってしまった。あとから考えると、腹から笑ったのは久しぶりだと感慨深かった。復習のつもりで今回、二度目の基礎コースに参加しているが、はつらつとした先生のリーダーシップのもと、みんなで作り出す気のスペースとでもいうのか、それがとても気持ちよく、基礎、復習ということもあるけれど、それはそれとして、楽しくもあり、また、元気をもらえるようで、毎週木曜日が待ち遠しい。

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一雨ごとに

 日曜日は五月の陽気かと思うぐらいの天気だったのに、きのう今日は、うってかわって雨模様。気温も下がった。からだの調子もなんだか変。この季節、歌もそうだが、桜が満開。ふだん気づかない場所にも咲いていて、へー、こんなところに、と驚くことしばし。わが社は特に花見はしないけれど、事務所の窓から日々うつろいゆく桜が楽しめる。

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つきと月

 稗田阿礼が「つき」と言ったとしますね。太安万侶が、ああそうですか、じゃあこの「月」という漢字を当てはめようと。そうすると後の人はあれが月だ、天にあるのが月だと言うわけです。ところがもともとの「つき」は全然違う。「つ」というのは「丸い」という意味です。「つつ」と二つつながると、茶筒のような丸くて長い「筒」ということになります。「き」というのは「奇」です。不思議だなという意味ですね。だから「つき」というのは三日月になってみたり、丸くなってみたり不思議なものだなと。不思議だなという意味が「つき」なんですね。それに太安万侶が「月」の字を当てはめてしまったものだから、いまの日本人は夜空の月を「つき」というものだと思っている。(葉室頼昭『〈神道〉のこころ』)
*葉室さんは現在、春日大社宮司

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身を包む

 「つみ」、「けがれ」というのは、いつもいっているように、「つみ」というのは人を殺したとか、そういう罪とは違います。人間の本当の素晴らしい本体を包んでしまうようなものということです。これは「つみ」=「包(む)身」、身を包んで、神さまのお姿を包んで隠してしまうものということなんですね。「けがれ」というのも、汚いという意味とは違います。神さまからいただいたエネルギー「気」を枯らしてしまうものという意味が、「けがれ」=「気枯れ」です。人間の素晴らしい神さまからいただいた身を包んでしまうもの、尊い神さまの気を枯らしてしまうようなものを身につけていると、病気になったり不幸になったりするわけです。それを水の力によって祓う。これが神道の儀式で「祓い」ということです。水にはそれだけのすごい力があるのです。(葉室頼昭『〈神道〉のこころ』)
*葉室さんは現在、春日大社宮司

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砂時計

 砂時計を見ていたら、本をつくることに似ていると思った。さらさらと下に流れ漏斗状のくびれのところで勢いを増したかと思うと、今度は末広がりになり安定した面へと落ち着く。本はくびれ。結節点。日々の時間が砂となって流れ落ち一点へ向かう。固定することのない流れでありながら、本という形に収斂する。でも、そこが終りではない。いったんは本に収斂した流れはさらさらと、また新たな流れをつくりだす。本はそのための駆動エンジン。今回更新したリンク先をつぶさに眺めていたら、著者たちのその後の砂の音が聞こえてくるようで楽しくなった。

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ゆがみの必要

 虚実というものは、歪みであり不調和ではあるけれど、計量された、何らかの正常値に比しての異常を意味するものではない。この点が、正常・異常を計量することによってなされる、西洋医学の病名診断と異なる点である。経絡の虚実は、その患者が、他の大勢の人々に比べて歪みがあるかどうかを判断するのではなく、計量することのできない宇宙の気に比して、実(過剰)であるか虚(不足)しているかを診断するものなのである。
 また、病気は虚実という歪みが深くなり、かつ固定的になることで起こるが、虚実がそのままイコール病気なのではない。個体が生命を営むためには、陰陽という対立が必要であるように、生命の営みにとっては、虚実という歪みが生じることが必要なのである。(遠藤喨及『タオ、気のからだを癒す』)

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