インド家庭料理

 地下鉄とバスを乗り継ぎ、横浜市都筑区東山田にあるインド家庭料理のお店ラニへ行って来た。インド料理の店ということになれば、だいたいどこでも、それなりにインドの風情を醸し出しているから、その点で、ここだけが特別どこがどうしたという感じはしない。ところが、店に入ってから出るまでのあいだ、食事も含めて、なるほどこれはインド! と感じ入った。
 店で働く男たちが皆兄弟だということもあるかもしれない(一緒に行った知人は二人しか区別がつかないといっていたが、別々の男が五人は確認できた)が、至るところにインドの空気が漂っている。テーブルや椅子の置き方一つにしても、日本人ならこうは置かないのではと思わせられる微妙な置き方なのだ。たとえ、三センチしか違わないとしても、それが自ずと感じる自然さだとすれば、その感性が作り出す料理も空間も別物となろう。知人はキーマカレー。わたしは野菜カレー。食後にチャイ。
 店を出、バス停で休日の時刻表を見たら、目的のバスが三時間も来ないことになっている。歩きながら車を拾おうとするも、タクシー通らず。結局、店まで戻って呼んでもらうことに。「OK! タクシー呼びましょう。すぐ来ますよ」とインド人特有の小首を傾げるイエスのサインも懐かしく椅子に座って待った。結局「すぐ来ますよ」の「すぐ」が三十分ほどだったのも、なんともインドやな〜と懐かしかった。味も雰囲気もいいのでお薦めだが、休日公共交通機関ご利用の向きは、帰りのバスまで調べておいたほうがいいかもしれない。

武家ダンス

 『ダンテ神曲原典読解語源辞典』が完結し、著者の福島先生と奥様をお招きした。学習院大学の中条省平さんは「あれは凄い辞書だ!」と絶賛している。
 先生は歌が好きで、ご自身歌われる。社の近くの寿司屋で乾杯し、その後二台の車に分乗、一路保土ヶ谷のコットンクラブへ。酒を控えるようになってから、しばらく足が遠のいていた。ママに会うのも久しぶり。石橋がさかんに「ママ、なんだか可愛くなったわ」と感に堪えた声。ほんとだ。タバコを止め、二駅分を歩くようにしていると言っていたが…。
 二階の特別席(ここからだと畳二畳分はあろうかという大スクリーンが正面に見られる)に陣取り、まずは前座でわたしが三橋美智也の「石狩川エレジー」。福島先生は、英語、フランス語、イタリア語の歌を次々に。石橋は古いのから新しいのまでいろいろ。若頭内藤は若頭らしくエゴ・ラッピン「色彩のブルース」とかローリング・ストーンズの「スター・ミー・アップ」とか。さて、問題(!?)は武家屋敷。『ダンテ神曲〜』が完結したのが担当者としてよほど嬉しかったのか、珍しく持ち歌を次々披露している。何を考えたか若頭、勝手にサザンの「HOTEL PACIFIC」を入れたので、わたしは慌ててマイクを取り、武家屋敷には前に行って踊ってはと目で合図。なるほどね。断るのかと思いきや、武家屋敷、喜び勇んで、かどうかは定かならねど、とにかく前に出、武家屋敷以外には踊れないという、これをユニークと呼ばずして何をユニークというのかというぐらいの、なんとも(ほんとに、どう言葉で表現したらいいのか分からない)ユニーク、フリージャズみたい(タップダンスみたいなのも混合されている)な踊りを踊った。なんとも表現の仕様がないから、とりあえずわたしは「武家ダンス」と呼んでいる。先生ご夫妻も大喜び。席に戻った武家屋敷、息せき切って言葉にならない。そんなに頑張らなくてもと思ったが、真面目は武家屋敷の真骨頂。
 歌あり踊りありのささやかな出版記念パーティーは打ち解けた雰囲気で終了。階段を下りて行くと、来た時には空いていたカウンター席が客でびっしり。送って出てきた凉子ちゃんに「帽子似合うわよ、三浦さん」と言われ照れくさかった。ママも出てきて「ありがとう」。いえいえ、こちらこそ。わたしも久しぶりに大声で歌わせていただきました。

朝の帝王

 薪能(たきぎのう)を観に、新幹線で移動中、何の話からそうなったのか、隣りに座っている石橋から、夜の帝王だったのに、すっかり朝の帝王になったわね、の指摘を受けた。帝王って、あぁた!?
 帝王だったことなんてなかったはずだが、前に勤めていた会社では、社長の付き人みたく夜もほとんど毎日のように出歩いていたわけで、そんな風に見られていたとしても仕方のないことではある。会社を起こしてからは、やる気充実、たのしさ全開で毎日飲んでいた。必然、夜が遅くなる。
 ところが最近、本を読んだり医者の意見を聞くにつけ、健康が大事と思うようになり、食事は腹八分目、万歩計を付けて朝会社まで歩くようになった。そのことを踏まえての石橋の意見だったわけだ。帝王はともかくとして、意識が夜に向いていたのが朝に向くようになったのは事実だ。

薪能

 観世流の能楽師で『能楽への招待』(岩波新書)の著書もある静岡文化芸術大学の助教授・梅若猶彦氏の招きで、氏の勤める大学構内で行われる薪能「安宅」を観に行った。今回、弁慶役が梅若氏。
 「安宅」は、観世信光作の能の一つ。作り山伏となって奥州へ向かう義経主従が、安宅の関で関守の富樫にとがめられるが、弁慶の機転で危うく通りぬけるという筋。歌舞伎「勧進帳」のもとにもなった。薪能(たきぎのう)とは、夜間にかがり火を焚いて行う野外能で、開演は6時。挨拶やら前座の仕舞が終わり、本番の「安宅」開始が7時ちょうど。空に月、一番星がかかり、会場の照明が落とされ、中央に目をやれば、小原流のいけばなが舞台に幽玄の世界を演出し、弥が上にも期待は高まる。
 ナマで能を観るのは初めてだったが、その迫力、一つ一つの動作、形の美しさに圧倒されっぱなし。弁慶が富樫に言い寄る場面では、弁慶の姿がその時だけ何倍もの大きさに拡大したように見えた。あの動き! 言葉の押し出し、発声、笛と太鼓、それぞれぴたりと息が合い、一瞬、舞台との境目がなくなって、ただ、わくわくしながら物語の進行を一緒に生きている自分に気づく。今年、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団による「ネフェス(呼気)」を観たが、世界最高の現代劇(舞踊)を観たときと同じ質のものを感じ、特別の元気をもらった。ほかのもぜひ観てみたい。もちろんナマで。

8000歩

 おはようございま〜す。おはようございま〜す。で、窓際の自分の席に着くと、武家屋敷がとことこ笑顔で寄って来た。ん、どした? 武家屋敷、おもむろに腰の辺りから何やら取り出し蓋を開けて見せてくれた。まぎれもない、それは万歩計だった。約3000歩を刻んでいる。「三浦さんは家から歩いてここまで来るのに何歩?」「約5000歩」「そっかー」「たのしそうだね」「ええ。10分以上歩くと、しっかり歩行としてカウントされるの」「ふーん」「三浦さんのは?」「おれのは、そういう機能は付いてないよ」「あ、そ」
 凡そこんな会話を交わして後、武家屋敷は万歩計を大事そうに元の位置に戻し、自分のパソコンのあるほうに歩いていった。なにやら歩く姿がくっきりはっきりしている。
 昼、食事に出た折に訊いてみた。「万歩計、付けてるの?」「もっちろん」「ふーん。うれしそうだね」「三浦さんが付け始めた頃に比べたら、それほどでもないわよ」「そかな? おれの時よりうれしそうだよ」「そんなことないって…」とは言うが、そんなことある武家屋敷であった。
 さて石橋。ヨドバシカメラの点数が余っているというので一番高い万歩計を買ったのはいいが、初期設定が複雑とかで未だに付けていないらしい。機械に詳しい愛ちゃんにでも頼んで設定してもらえばいいじゃんと言ったら、体重だとかいろんなことがバレバレになるのが嫌だとか、いまさらそんなこと関係ないかとか、逡巡している。
 JR保土ヶ谷駅構内にある三崎丸で働くおばさんは、一日店で働くだけで8000歩あるくそうだ。すげぇー! 家との往復を入れると約1万6000歩だとか。

へなちょこ

 骨折した鎖骨の状態を診てもらいに仙台へ。月1回の診察だから6回目ということになる。ウチから『明治のスウェーデンボルグ』を出している瀬上先生はいつもにこやか、お顔を拝見するだけで病院嫌いのわたしはホッとする。きのうは、レントゲンを撮らずに、なんという機械か分からないが、いきなり骨を透視する機械の台に乗せられ、折れた箇所のくっ付き具合を診てくれた。「大丈夫ですね、もう」と先生はちょっと仙台訛りのある言葉で言った。半年の胸のつかえが一気に下りた感じ。「2ヶ月後にまた見せに来てください」「はい」「肩をぶつけないように気をつけてください。それと、重いものはなるべく持たないように」「はい。ありがとうございました」
 超多忙な先生に別れを告げ、次にリハビリ科へ行き左腕を動かすリハビリをする。ここの先生がまた穏やか〜な感じの先生で、なんでも気になることを話してくださいというから、つい、最近感じている「死の不安」について話してみた。黙ってわたしの話を聞いていた先生は、仕事がら死を看取る場面の多いこと、死の受容の段階について、さらに、断定的でなく、こういうことが大事ではないでしょうかということを静かに話された。「三浦さんは第1段階に入ったということではないでしょうか」そうかもしれないと思った。
 大好きだった祖母と祖父が相次いで亡くなった時、悲しくて涙を流しもしたけれど、今思えば、自分のことはカッコに入れ、ただそこに佇んでいたように思うのだ。たかが鎖骨を1本ポキッと折った(涙)ぐらいなのに、それがきっかけとなり、あざやかにカッコが外れ、臆病なわたしは、自分の死について初めて思いをいたし、へなちょこにも鬱々と気を病むようになった。糸の切れた凧状態。枝から離れた葉っぱのよう。川を流れる笹舟みたい…。
 そうなってみると、たとえば新井奥邃が自分の死に際して「墓も作るな」と周囲に語ったこと、禅僧の澤木興道が晩年、自分が死んだら近くの医科大学に献体せよとの遺書を持ち歩いていたなどの話を聞くにつけ、これからどんなに勉強し精進しても、そんな境涯に自分はとてもなれそうにもない。けれども、ただ日々笑って面白おかしく暮らす(そうやって最後まで行けたらどんなにいいだろう)より、生まれたからにはいつか必ずやってくる自分の死について少しは思い(思うだけではダメかも知れぬが)をいたしながら、一日一日を感謝して暮らせるようになりたいと、これまたほんの少しだけど思うようになった。

休日は散歩

 ウォーキングに凝り始めて、朝、会社まで歩くようになってから、帰りに電車を利用しても優に1万歩は超えるようになった。もともと歩くことは嫌いじゃないし、健康にもいいとなれば、やらない手はない。
 平日のリズムはそれなりにできたが、休日はどうする。というわけで、最近、休みの日は散歩をするようにしている。家を出て左へ折れ、ちょちょっと階段を上ればそこが御殿山の頂上で、晴れていれば富士山が見える。身を翻せば保土ヶ谷の交差点がはるか下に望める。行き交う横須賀線や東海道線の電車はまるでオモチャ。
 高速道路の上を渡り山の反対側へ。遠くの景色を眺めながら坂道をゆっくり下りると間もなく「大我」というスーパーマーケットがある。その横の道を入って階段を上ったところが春日神社。境内で軽い体操をして反対の階段を下り一路京浜急行井土ヶ谷駅へ。今の住所の前は井土ヶ谷に住んでいた。馴染みのある駅周辺に入り込み、井土ヶ谷郵便局を折り返し地点と決め、そこで回れ右(本当は回れ左)をして今度は鎌倉街道を保土ヶ谷方面に歩く。よく行っていた寿司屋はまだ開いていない。永田のインターチェンジまで進み、横断歩道を渡って長い長い階段を上れば元の御殿山頂上に達する。ハンカチで汗を拭き拭きおもむろに万歩計の蓋を開けると5000歩弱。これがこの頃の休日の朝の日課。大した距離ではないけれど、坂あり階段あり、絶景というほどではないが緑もあって、休日の朝を楽しむには程よい散歩コースだ。