宿題

 再校ゲラを自宅へ持ちかえり、せっせと校正・校閲。その甲斐あって、予定していたものを終えた。気分最高。ところが、この仕事をするといつもそうなのだが、頭が固まったような状態になり、話しできなくなる。ボーとして自分でも、あらら、どうしたっていうの、と思うのだけれど仕方がない。集中してやったということだよ、と自分を慰めているのだが、我ながらもう少し早く回復して欲しい。
 台所のコーヒーカップに漂白剤を入れておいたのを忘れてグッと飲み干してしまい、あわてて牛乳を二杯飲み中和、ああ、まだ仕事モードから解放されていなかったのかと思ったものの、よくよく考えてみれば、玄関のドアにカギを掛けたかどうかすぐに忘れて戻るように、単なる呆けだったかもしれない。自分の行動に責任が持てないよ、まったく。

スープカレーといえば…

 保土ヶ谷駅そばの○屋へ行ってスープカレーを食べた。このあいだ店の前を通ったら大々的に宣伝しており、おおっ、ここにも流行の波が押し寄せたかとしばし立ち止まり、以来気になっていた。
 セットのもあったが、初めてのこともあり、一番安い三九〇円のプレーンのにした。ご飯がついてこの値段はけして高くない。味のほうは、唸るほどではないが悪くない。ただ難点は、ジャガイモとニンジンの味がイマイチなことと油が多いこと。ならダメじゃんと突っ込まれそうだが、スープそのものの味はスパイスも効いていて美味しいと思った。辛さは、ポスターに激辛だったか超辛だったか、とにかく凄〜く辛いんだゾと広告していたけれど、これについてはそれほどでもなかった。
 スープカレーといえば、なんといってもマジックスパイス。あれの「虚空」を一度だけ食べたことがあるが、ケツから火を吹くという形容がまさしく当たっていた。思い出したら食いたくなったヨ。このごろは店長の娘、一十三十一がブレイクしているようだ。いちじゅうさんじゅういちって何だ? って思ったら、一十三十一と書いて、ひとみ・とい、と読むんだそうだ。階段登ったと思ったらもう降りたかよ、みたいな名前だ。クレシェンドがすぐにデクレシェンド、とも言える。あるいは超速ドップラー効果ってか。積み木にも見えるな。

笑う哲学者

 木田元さんの新刊『新人生論ノート』(集英社新書)を読んでいたら「笑いについて」の章で「君は哲学者なのによく笑うな」とほかから指摘されることがあるという記述があって爆笑。何度かお目にかかったことがあるが、たしかに木田先生はよく笑う。カニの甲羅を彷彿とさせる二十世紀最大の哲学者ハイデガーの研究家であることを思えば、木田先生も眉間に皺を寄せていると想像したくなる気持ちもわからないではない。
 思い出したのが詩人の山之口貘。金に困ってどこぞの女将に無心に行ったら、詩人が金を借りてはいけないだったか、持ってはいけないだったか、とにかく体よく断られた話を読んだ記憶がある。セレブの詩人というのもあっていいと思うのだが、ちょっとイメージしづらい。詩人=金に困っていても書く詩は凄い、というイメージがいつのまにかできたのだろう。

撮り方ビデオ

 捨てることが趣味になり、さてこれは、あれは、こっちは、そっちは、これからの人生で本当に必要だろうかと考えたら、どうもそうでもなさそうだと思えてきて、捨てる。捨てる。あれも、これも。やり始めたら切りがなくなってきた。
 たとえばだ。いまどき携帯電話で動画も撮れるのに、8ミリビデオ(若い人はもう、こう言ったってわからないのじゃなかろうか)を持っていること自体が骨董趣味かもしれないのに、そのバッグともなると意味不明、今後の人生で役立つとも思えない。さらに、バッグの中をあらためてみると、「撮り方ビデオ いつかきっと見たくなる思い出ビデオ撮影のコツ」なるテープが入っていた。意味ない!
 あれを捨て、これを捨てているうちに、鏡を見ながら自分の髪をハサミで切るサラ金のコマーシャルを思い出した。事前に計画を立てましょうというアレだ。本当にこのまま捨てつづけたら、この部屋に移ってきたときの状態にまで戻ったりして…。(んなこたねえか)
 捨てる直前、文字が書かれていればそれを読んだり、手に持って重さを計ったりしているが、今となってはそれぐらいの価値しかなくなっているものがほとんどだ。へー、こんなものまで、と思うようなものも。

 ホーキンスの靴を新たに二足買った(自分の足にフィットすることを発見して以来二足ずつ買うのが習わし)ものの、古いのをすぐに捨てる気になれず、中敷きを換えて履いていた。
 先日雨の日に履いて外へ出たら、足の裏がジトーッと濡れてきた。ああ、とうとう来たか! と思いながら、路上で確かめるわけにもいかず、とりあえず会社へ向かう。出社後に脱いで裏返してみたら、靴底がペラペラになり一箇所破れているではないか。はあ、ここから水が漏れていたのか。ここまで履けば充分だろう。こんなふうになってはもう捨てるしかない。わたしはしばし感慨にふけった。が、会社のこととて新しいのに履きかえるわけにもいかず、仕方がないので破れ目にガムテープを十字に貼ってその日家に着くまで急場をしのいだ。きのう、ついに新しい靴を下ろした。茶色い靴。

風通し

 鎖骨を折ったせいで何かと不自由になったが、悪いことばかりではない。自分にとってこれは大事な節目かなと思う。せっかくこんなふうに思えるのだから、思うだけでなく、積極的に実践しようと考え実行することにした。何をしているのか。身辺整理。要するに、いろんなものを捨て始めている。
 今までと違った目で自分の部屋を眺めているうちに、それってどうなの? という気がしてきて、本当にこれって必要なの? とみずからに問いかけ、要らぬ要らぬ、えーい、捨てちまえ! ということになってきた。
 たしかポール・オースターの小説に、本を重ねた上にベッドが置いてあり、読み終えた本から順番に処分していく話があったと思うが、気分はどうもそんな感じ。だいたい今まで、一度読んだ本を読み返したことなど何回あったか。そう考えると、本棚に並んだ背文字を見て自己満足に浸っているだけのような気もしてくる。
 とにかく要らないものを捨てて風通しをよくしたい。事務所を自宅から引越し、自宅を自宅として使うようになった時にずいぶん広く感じたものだが、いつのまにか物が増え、垢のようになってしまった。今日はゴミの日、さて何を捨てようか。

一字

 小社から『ナショナリズムと宗教』を近々刊行予定の著者から編集担当のたがおにありがたいメールが届いた。ていねいに校正・校閲をしたことへのお礼のメールで、わたしが褒められたこと以上にうれしく、全文ここに掲載、自慢したいぐらいだが、そこをぐっとこらえ、文中にあった「文章そのものの校正」「身体的関係性の結びつき」について考えたい。
 本をつくる場合、まず原稿をザッと読み、ここは要らない、ここはもっと厚く、タイトルを変えたほうがいい、装丁は? 中の写真は? レイアウトは? 等々、著者に提案し、よく相談する。これはそんなに時間がかからない。問題はその後だ。
 編集者でなければ手をつけてはいけない、また、編集者の特権である校正・校閲の仕事が待っている。一字一句おろそかにしない校正・校閲とはどういうことか。人にもよるが、平均して、四百字詰め原稿用紙一枚につき十分ないし十五分かかると考えたほうがいいだろう。一時間で四〜六枚。十時間やっても四十〜六十枚。ほかの仕事もあるからゴッソリ十時間確保できることはない。さて、そうやって何をしているかといえば、著者が思考する際の身体的リズムに編集者みずから同調している。著者がリズミカルに思考すればこちらもリズミカルになり、とどこおればこちらもとどこおる。そうやって三百枚なら三百枚、千枚なら千枚読みすすみ、気になるところに朱を入れる。そのうえでふたたびタイトルや構成や装丁を考える。
 この「一字一句おろそかにしない校正・校閲」を、わたしは今は亡き安原顯さんから教わった。安原さんは天才だから、われわれのようには時間がかからなかった。
 わたしが最近体験したことでいえば、本当に一字のことがあった。小社PR誌「春風倶楽部」に演出家の竹内敏晴さんの「変容するからだとことば」を連載しているが、次号の原稿をFAXでいただいたとき、最後のところがどうもしっくりこないという旨のことばが添えられていた。何度もていねいに読み、わたしもなんだかしっくりこないと感じて、うんうん唸った。シロクマのように机の周りをぐるぐる回ったかもしれない。やがて「!」と膝を打ち、ほかには一切手を入れず、最後の文の助詞を一字だけ換えて竹内さんにFAXした。間もなく竹内さんから電話が入り、これでお願いします、と言われた。
 『ナショナリズムと宗教』の著者は、たがおとの今回の仕事を「はじめての刺激的な体験です」と言ってくれている。「肉体関係を持っている感覚」という際どい表現もつかって。でも、著者と編集者というのは、そういう関係にならなければおかしいとわたしは考える。でなければ一生をかける仕事ではない! うん。あくまでも文章を介してということだが…(あたりまえか)。