意識のしずく

 

漱石さんがなにかのどこかに書いていたかと思うのですが、
なにのどこだったか、とんと思いだせない。
眠ろうとしたときに、どこから眠りに入るのだろう?ということが気にかかり、
ここからか、いや、まだだ、ここからか、いや、まだだ、
というように、
ここから眠りに入るのだな、
と思うと、
その「思う」が邪魔して、眠りは遠のく、
みたいなことを書いていたような。
まちがっているかも知れませんが、記憶ではそうです。
そうだろうなと、かつて思ったし、
いまもそこのところに異論はないのですが、
ただ、このごろ、
あることに気がついた。
厳密に眠る瞬間をつかまえることはできなくても、
その瞬間に向かって、
意識の輪はだんだん変っていきます。
歳相応に、
夜中起きてトイレに立つことがありますが、
いったん起きてしまうと、
なかなか寝付かれない。
面倒だから、もう起きちゃえ、と、布団を離れることもある。
が、
起きずに、ジッとしていることも。
そういうときは、
仕事のこと、親のこと、読んでいる本のこと、
いろいろ意識がへめぐり、
へめぐる意識に疲れてしまいそう
になりますが、
そうしているうちに、
めぐる円の半径が少しずつ小さくなっていく。
たとえていうなら中華鍋のしずく。
中華鍋を水洗いしたあと、鍋を火にかけ、水分を飛ばしますが、
完全に水分がなくなる時に近づくと、高温のしずくがいくつか鍋の凹面をころがり、
さいごは、ひとつに固まり、ころころころころ、
やがておとなしくなって、
その球の半径がだんだんに小さくなったかと思いきや、やがて、
ジュッ。
そのジュッ、
が眠る瞬間だとして、
それを意識することはできなくても、
意識のしずくがだんだん小さくなっていくことは意識でき、
それを意識しても、
眠りは遠のかず、ジュッ、は、やがてやって来る。
みたいなことなのですが。
どうでしょう。
あたりまえといえば、あたりまえ。
でも、
これを知ってから、
意識のしずくの変化をたのしむようになり、
眠りの、眠りに入る前の味わいが変った気がします。

 

・張り張りてときどき弛む蟬の声  野衾

 

歴史の味わい

 

高校生のときの話になりますが、
大学受験のために世界史を選択している同じクラスの女生徒が、
「もっと早くに生まれていたかった。そうすれば、憶えることがこんなに多くなかった」
と言った。
ほかの生徒がいるまえで、笑いながらでなく言ったので、
かえって可笑しかったのを憶えています。
暗記科目と思っていた歴史が俄然おもしろく感じられるようになったのは、
大学に入ってからのことでした。
ちかごろ読んだ本に、
紙にまつわる歴史がいろいろ取り上げられていて、
仕事とも関係するし、おもしろく読みました。

 

この紙と郵便の連携の意義は、決して過大評価ではない。
十七世紀には学者のあいだで「論文書簡エピストラ・ドクタ」が活発にやりとり
されたが、
それが十八世紀における雑誌の誕生へとつながる。
書簡のやりとりは、
既成の知識の普及に役立ったのはもちろん、知識が生産される段階ですでに存在していた。
書簡のやりとりがそれだけ頻繁におこなえたのは、
郵便制度が誇る定期性ゆえである。
郵便物をいつどこから出せば、いつどこに届くかが、
従来よりもはるかに正確に予測できるようになった。
紙は、
印刷機の複製速度を持続的に支えると同時に、
郵便制度の定期性とも深く結びついていたのである。
ここに郵便という、
近代的な生活世界に特徴的な一つの要素が生まれる。
人々は退屈な日常のなかで、「郵便集配日」を待ちわびた。
文学の重要なモティーフともなった。
鉄道時代が訪れるはるか以前に、郵便は運行計画を利用していた。
そして最終的には、
現在を現在として経験することを可能にし、
物理空間内に散在する諸個人をまとめて同時代人へと変えるメディア――
すなわち新聞を生み出したのである。
新聞の成立は十七世紀前半のことであり、
印刷機の発明からは百五十年もの開きがある。
それゆえ新聞は印刷術から直接生まれたわけではない。
むしろ新聞は、
手書きの書簡や印刷された見本市報告メスレラツィオーンと郵便との共同作用
から誕生したと言うべきである。
(ローター・ミュラー[著]三谷武司[訳]『メディアとしての 紙の文化史』
東洋書林、2013年、pp.109-110)

 

論文書簡。へ~。知らなかった。それが雑誌へ、か。
また、
紙と郵便、手書きの書簡と新聞、
歴史的な事象に関してのつながりの糸が見えてき、合点がいき、
俄然おもしろくなってくる。
学術的な内容ですが、
さりげなく、
「人々は退屈な日常のなかで、「郵便集配日」を待ちわびた」
なんてことばが挟まれると、
さらにグッと味わいが深くなります。
ちなみにこの本の装丁は、
2021年7月5日に他界された畏友・桂川潤さんです。

 

・朝からのゲラに文鎮夕涼み  野衾

 

インターンシップ

 

ご縁のある大学の先生からの紹介で、
インターンシップの学生さんがふたり来社されました。
これまでにもこういう機会があって、初日のはじめに「出版社とはなにか」
というテーマで話をします。
今回も、同じように話し始めたのですが、
始めてすぐに、
空気感が、前回までとちょっと違っていることに気づきました。
こころがまえ、
と言っては、すこし大袈裟ですが、
若い方と、電話でなく、LINE(わたしはやりませんけど)
でなく、
Zoomでなく、
直にお目にかかって面談する、できることがとても貴重に思えたから
かもしれません。
ですので、
まずわたしから話しましたが、
若いお二人が、スマホやパソコンに関してどんな印象を有っているか、
紙の本を、どんな感覚で受けとめているか、
それらについていろいろ尋ねてみました。
「情報」「深い学び」「楽しみ」「記憶」などのことばが、
印象にのこりました。
ひとばん眠り、
いまこうして振り返ってみて、
直の面談の特徴をひとことで言うと、気の交感、みたいなことになるのかな、
とも思います。
電話はもちろん、Zoomでも、
会話が途切れると、空気が白くなる感じがありますが、
直の面談、対話は、
あまりそういうふうに感じない。
ことばが途切れ、しばし沈黙しても、アワワワワとならない。
沈黙に色が着いているとでもいうのか、
ふわり、いい感じ。
時間がたてば、
もっと上手にことばにできるかもしれません。
体感として、
ひとと直に話すのは、いいものだなと改めて感じました。
なにごとによらず、
改めて感じることが多くなっているこのごろ。
還暦を過ぎたからかな。
あたりまえ過ぎて、
これまであまり意識してこなかったことを考える機会が多くなっている気がします。
まだつづいていますけど、
COVID-19を経験し、潜ったことも大きいと思います。

 

・夏草や馬も喜ぶ日のかをり  野衾

 

だれにとっての「よい」

 

これまでの人生で、いまほど本を読んでいることはないかもしれません。
新型コロナウイルスが感染症法上の5類に移行し、
一定度の落ち着きを見せてはいるものの、
COVID-19は、個人的にもいろいろ感じ、考えさせられるきっかけになりました。
いろいろあることを、ひとつのことばで言えば、
「接触=触れる」ことの、人間にとっての意味の再確認
だったかと思います。
本のこと、本を読むことも、改めて考えさせられます。
日々、本を手に取り、本の重さを感じ、開き、本文の紙にさわり、なで、
黒く印刷された文字を目でなぞっていく。
真っ白い紙ではなく、
ほんのすこし黄みがかった紙に印字された黒い点や線の記号が、
子どもの頃からの学習によって身につけた覚えにより、
単語となり、文となり、
わたしのあたま、こころに像をむすんでいく。
ほかのひとのためでなく、まず、わたしにとっての「よい」をさぐる
ことも、
COVID-19の教訓であるようです。

 

わたしたちは相変わらず服を着ているし、その大半は裁断・縫製されたものだ。
だが、
次々と生み出される流行に合わせて衣服を脱ぎ着し、
自らを誇示することへの疑問が感じ取られているのかもしれない。
だからこそ、
編むことによって身体表面を覆い尽くし、
布地と交感して皮膚を呼び覚まし、
シームレスにつながる「皮膚」としての衣服が求められる。
ヴィジュアルイメージを更新するのではなく、
皮膚感覚を希求するファッションこそが、
二一世紀以降の新たな方向性を指し示していると言えるだろう。
(平芳裕子[著]「シームレスの美学 ファッションと皮膚感覚」、
平芳幸浩[編]『現代の皮膚感覚をさぐる 言葉、表象、身体』春風社、2023年、p.134)

 

現代の皮膚感覚をさぐる 言葉、表象、身体
は、
弊社から昨年三月に刊行された本で、
八人の方の共著になります。
COVID-19の経験をも踏まえた真摯な論文集で、
一読者としておもしろく読み、それぞれの論考からさまざまな刺激を受け、
いろいろ考えさせられました。
本を読むことが、どの媒体で読むかをふくめ、
わたしのとってどういう意味があるかを考え、考えさせられたのも、
その一つであります。

 

・日を暮らしとろりの時の端居かな  野衾