意識のしずく

 

漱石さんがなにかのどこかに書いていたかと思うのですが、
なにのどこだったか、とんと思いだせない。
眠ろうとしたときに、どこから眠りに入るのだろう?ということが気にかかり、
ここからか、いや、まだだ、ここからか、いや、まだだ、
というように、
ここから眠りに入るのだな、
と思うと、
その「思う」が邪魔して、眠りは遠のく、
みたいなことを書いていたような。
まちがっているかも知れませんが、記憶ではそうです。
そうだろうなと、かつて思ったし、
いまもそこのところに異論はないのですが、
ただ、このごろ、
あることに気がついた。
厳密に眠る瞬間をつかまえることはできなくても、
その瞬間に向かって、
意識の輪はだんだん変っていきます。
歳相応に、
夜中起きてトイレに立つことがありますが、
いったん起きてしまうと、
なかなか寝付かれない。
面倒だから、もう起きちゃえ、と、布団を離れることもある。
が、
起きずに、ジッとしていることも。
そういうときは、
仕事のこと、親のこと、読んでいる本のこと、
いろいろ意識がへめぐり、
へめぐる意識に疲れてしまいそう
になりますが、
そうしているうちに、
めぐる円の半径が少しずつ小さくなっていく。
たとえていうなら中華鍋のしずく。
中華鍋を水洗いしたあと、鍋を火にかけ、水分を飛ばしますが、
完全に水分がなくなる時に近づくと、高温のしずくがいくつか鍋の凹面をころがり、
さいごは、ひとつに固まり、ころころころころ、
やがておとなしくなって、
その球の半径がだんだんに小さくなったかと思いきや、やがて、
ジュッ。
そのジュッ、
が眠る瞬間だとして、
それを意識することはできなくても、
意識のしずくがだんだん小さくなっていくことは意識でき、
それを意識しても、
眠りは遠のかず、ジュッ、は、やがてやって来る。
みたいなことなのですが。
どうでしょう。
あたりまえといえば、あたりまえ。
でも、
これを知ってから、
意識のしずくの変化をたのしむようになり、
眠りの、眠りに入る前の味わいが変った気がします。

 

・張り張りてときどき弛む蟬の声  野衾