方言と古語

 

ゴールデンウイークの帰省中、気になった秋田のことばを三つ取り上げました。
三つ目が動詞の「あべ」で、
秋田県教育委員会編、無明舎出版刊の『秋田のことば』で調べてみたら、
それには、
「あべ」の終止形「あんぶ」(「ん」は小さく表記)について、
「歩(あゆ)む」。
「幼児が歩き出すことをいう」との記載があり、
先週金曜日の「よもやま日記」に書いたとおりです。
「あんぶ」が「あべ」になったのだな、
と思い、
いったんは納得したのですが、
こんどは「あんぶ」が気になりだした。
そこで、
佐伯梅友・馬淵和夫編、講談社刊の『古語辞典』をパラパラめくっていたら、
「あゆぶ【歩ぶ】」に出くわした。
いわく、
〔「歩む」の転〕あるく。歩む。「杖にかかりて、つかれ歩ぶ」〈今昔・一・三〉。
「あゆぶ」→「あんぶ」か。なるほど。
数年前、
伊藤博さんの『萬葉集釋注』を読み、
方言と古語の関係についていろいろ思いを巡らせることができ、
たのしい読書になりましたが、
今回も、
こういうかたちで古いことばが残っているのだな、
と腑に落ち、
小さい感動を覚えました。
子どもの頃から馴染んできたことばが、
古い日本語とリンクしていて、
不思議な感覚にとらえられます。
むかしのひとと心を共有しているようにも感じます。

 

・やはらかく桜蘂降る山の道  野衾

 

「あべ」について

 

今回の帰省中、もう一つ気になった秋田のことばがありました。
それは、「あべ」。
「あべ」って何?
安部さんや阿部さんの「あべ」でなく、
動詞としての「あべ」。
歩行が困難になった母を誘い家族でドライブを、
という弟の考えを、
はじめは了解していたのに、
当日の朝になって、じぶんは行きたくない、行かない、と渋りはじめた。
弟とわたしが懸命に説得し、計画どおり、
けっきょく行くことになり、
結果、
とてもたのしい二時間のドライブになりましたが、
ゴネる母の気持ちを変えようとして、
不意に出たことばが
「あべあべ!」。
共通語に訳すと「行こう行こう!」となるでしょうか。
辞書に載っているとすれば終止形のはずなので、
それと睨んで「あぶ」を『秋田のことば』で調べてみたら、
ありました。
「あ」と「ぶ」の間に「ん」が小さく記載されています。
意味は、
「歩(あゆ)む」。
「幼児が歩き出すことをいう」ともあります。
それで合点がいった。
「幼児が歩き出す」ですから、
ただ「歩く」ではなく、
いままで這っていた幼児が「やっと」「ようやく」歩き出す、
そのようなニュアンスを含んでいると思われます。
ですから、
あの日、母を誘って外へ連れ出そうとしたとき、
家でじっとしていないで、
重い腰を上げ、いっしょに行こうよ「あべあべ!」となったのだと思います。
ことばを置き換えるとき、
ニュアンスがとてもだいじであることを改めて思い知らされた。
ニュアンスに「こころ」が潜んでいるようです。

 

・老父の寝息や蜂の羽音止まず  野衾

 

「ごしゃぐ」について

 

これまた今回の帰省の際、耳にのこったことばに「ごしゃぐ」があります。
母が朝食後の薬を飲んで、ほどなく、
「あれ! クスリ、飲んだけが?」と口にした。
すかさず父が、
「なだど。いま飲んだねが! えっちに忘れだぢが?!」
ちなみに、
「えっちに」とは「早くも」「もうすでに」
ぐらいの意。
父のことばがけっこうきつく響いたらしく、
母は
「そたにごしゃぐなよ」。
そういう場面で「ごしゃぐ」が使われていた。
意味は「怒る」。
秋田県教育委員会編、無明舎出版刊の『秋田のことば』によると、
「ごしゃぐ」の語源は「後世を焼く」。
後世とは、この世に対しての「あの世」。
ですから「後世を焼く」とは、
自身のあの世の生を焼き滅ぼす、という意味になるでしょうか。
つよく怒ると、あの世の生を失くしてしまうよ、
だから、あんまり怒りなさんな…。
そんなニュアンスの、
怒る行為に対しての戒めを含むことばのようです。
ところで。
ある方から質問されましたので、
注記しておきます。
きのうのブログ中の「尻子玉」は「しりこだま」
と読みます。

 

・鷺ゆく夏母の忘れをごしやぐなよ  野衾

 

「だんこ」について

 

歩行が困難になった母が、お尻を床にズリズリさせながら進むようになって以来、
おのずと、お尻のことが母の会話に上るようになりました。
いわく、
こうやって進むので、ズボンのお尻の辺りが破けてしまうこともある、云々。
秋田弁では、
こうやって進むがら、ズボンのだんこのあだりがやぶげでしまうごどもある、云々。
ということで、
わたしの地方では、お尻=だんこ。
秋田県教育委員会編、無明舎出版からでている『秋田のことば』
に、
ちゃんと載っていました。
いわく、
「「玉こ」。人の肛門の口にあると想像された玉が「尻子玉」で、
水中でこれをカッパに抜かれると臓腑まで食われると信じられた。
方言では省略形「だまこ」を採用し、さらに「だんこ」に変じたものであろう。
一説、「脱肛」からの変化だという。」
記憶で恐縮ですが、
尻子玉が河童に抜かれる話は『和漢三才図会』にもあったような。
尻子玉⇒「尻」脱落⇒子玉⇒逆転⇒玉子⇒だんこ。
こういうことでしょうか。
一説にある「脱肛」からの変化というのは、
音としては「だんこ」に似ているけど、
わたしとしては、
尻子玉説のほうが好きだなぁ。
好奇心旺盛だった少年時代の父が、
学校近くを流れている川に河童が棲んでいるらしいといううわさが本当かどうか、
それを確かめに川べりを探索した、
そんな話を以前父から聞いたことがあります。
そういうわけで、
子どもの頃からあたりまえに使ってきたことばに、ある時、
ふと、立ち止まるように、
その語源をさぐると、
思わぬ発見があり、なんだか楽しくなります。

 

・ぽつかりの雲行く蜂の羽音かな  野衾

 

母からのメッセージ

 

GWの後半、3日からきのうまで帰省しました。
92歳の父と88歳の母は、日々の一つ一つの行い、判断に奮闘しています。
歩行が困難になった母が、
お尻を床にズリズリさせながら進む姿は、
かわいそうでありますけれど、
賢明なこころの形を無言で示してくれているようです。
わたしの半生を振り返るたびに思うのは、
小学四年生のときに、
母が買ってくれた夏目漱石の『こゝろ』のこと。
のちに、
どういう理由から、どこで、
ほかの本でなく、なぜその本にしたのか、母に尋ねたことがありますが、
母は、一切記憶していませんでした。
夏目漱石がどういう人物なのか、
おそらく母は知らないはず。
こたえのない問いであり、
ここに人生の不思議を感じるわけですけれど、
ほとんど終日、
ソファに座っているいまの母の姿は、
本人も意識しない、
「こころ」そのもののようにすら思います。
たびたび体をねじり、
ソファのすぐ後ろの障子を開け、
外の景色を見やる姿は、かぎりなく少女に近づいていくようです。

弊社は、本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・ふるさとの新緑や山々に雲  野衾