旧交

 

・つれづれを草しみじみと春の宵

高校の同級生S君が、
地元紙の出版部長に昇進し、
会議に出席のため上京するとの連絡がありましたので、
昨日、
東京駅八重洲中央口で待ち合わせし、
会ってきました。
ふたりとも五十半ばを過ぎ、
らしくぼやぼやと老いはじめ、
あの混雑のなか、
はたして指呼できるかと不安がよぎりましたが、
いくつになっても、
こごろとまなぐは少年のまま、
きろっきろど。
まったくの杞憂に帰し、
すぐにやあやあやあ、
まあまあまあまあ。
で、
駅地下にある
おしるこ屋へ。
S君は漉し餡のぜんざい、
わたしは粒餡のぜんざい。
お茶を何杯もお替りし、
ぜんざいひと椀で一時間。
むかしの時間のほうが長くなって、
道に置いてきた石をよけると、
思わぬ発見があったり、
過去は過去ならぬ、
思わぬ発見の現在であるなあと。

・春日出で物産展の蟹を食ふ  野衾

経験の結晶

 

・鶯や保土ヶ谷宿の夢見たり

きのうにひきつづき、
インタビューをまとめるについて。
小野寺先生のお話のなかに、
「勘」のことがでてきます。
勘が鋭いとか、
勘がはたらくの、あの勘。
先生は、
カトリックの信仰と
西田幾多郎の哲学の結節点を求めることを
生涯のテーマとしてこられましたが、
そのような難しげな学問と
勘というのは、
いかにも結びつかないようにも思えますが、
先生がおっしゃるには、
ご自身にとって
大事な問題をつかまえるのは、
これすべて勘なのだと。
勘は経験の結晶であるとも。
経験は決して相対的なものではなく、
経験には経験の論理があって…。
ははあと、
ゲラを食みながら納得。
西田いうところの純粋経験、
「内在的超越のキリスト」への関心等々、
ふるさと岩手の風土から醸された思想であると感じます。

橋本照嵩『石巻かほく』紙上写真展
の十回目が掲載されました。
コチラです。

・鶯や街道沿いの松を見ゆ  野衾

インタビューをまとめる

 

・鶯や千年の渓深くなり

小野寺功先生の『西田哲学から聖霊神学へ』に、
過日行ったインタビュー記事をまとめ
巻末に収録する予定になっており、
ただいま鋭意すすめているところですが、
仕事なのに、
こんなに面白くていいのかと。
インタビュー当日、
先生は風邪気味だったかして少し沈みがちでしたが、
お話くださっているうちに、
のそりのそりと山を歩いていた熊が、
ばばばばあああっと、
両手を広げ
体をひらいて立ち上がったかのごとく、
はつらつお顔も赤くなり。
三時間半に及んだインタビューは、
テープ起こしをしたら、
A4サイズで四十五枚。
これを桑の葉を食むようにガシガシ推し進め。
インタビューをまとめるのは創作に近く、
テープ起こししたものは、
あくまで参考。
目の前の原稿をにらみ食みつつ、
飲み込んだ栄養素から糸を吐き出すように
新たに文を書いていく。
これまさに蚕。
たいへんだけど面白い。
出来はいったんおいといて、
こころざしとしては、
インタビューを超え創作することで
インタビューの面白さは、
再現でなく創り出されると思っています。

・鶯やお前どこかとホーホケキョ  野衾

肩に風邪

 

・田仕事を告げて野太き父の声

高熱がで、
インフルエンザかと思いきや、
どうやらそうでもなかったらしく、
熱が引き、
痰が切れ、
鼻水も治まりましたが、
肩から首筋にかけての凝りがしぶとく
まだ残っています。
ぜってーはなれねどー!!
なんて、
洟垂らしの悪ガキが
両肩にしがみついているような気配。
後ろを振り返り、
こっちがおめーにしがみついでやっがらなー。
こんぢぐしょう!

・秋田より宅配便の米とどく  野衾

周回遅れ

 

・ウグイスやウグイスのこゑ上手なり

歴史変動のきっかけがだれにも気づかれずに蒔かれ、
後になって歴史家がそれと指摘する、
みたいなことが
個人にもあるようで。
このごろ詩を読んだり書いたりするのが面白く、
さてこの変化はどうしたものか
と思いますが、
杉山平一の『現代詩入門』を古書で求め読んでいたところ、
あれあれこの本は、
わたしがかつて
有隣堂横浜ルミネ店で買ったもの!
当時面白く読んだことも、
それから古本屋に売ったことも
すっかり忘れておりました。
高校教師をしていたころか、
教師を辞めて
東京の出版社勤務を始めたころだったかと…。
詩への興味が本人も気づかず、
チョビリチョンビリ
湧いていたのかもしれません。
今回、
その流れで、
上下二巻の浩瀚な『杉山平一全詩集』を読んでいましたら、
「あとがき」に面白いことが書かれていて、
たいへん興味を持ちました。
「上巻を出したとき、記念会で私の詩作品が戦後詩とくに現代詩といわれているものと違っているので「第一線を走っていると思っていたのに、あるとき、ふと、自分は一周遅れだったことに気づかされ、肩を並べているが実はいまは二周も三周もおくれているらしい。だからゴールはまださきであると思う」などといった。
けれども、下巻を編み「ミラボー橋」などを読んでいると、伊藤静雄さんが、杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた通り、自分は一周二周おくれではなく皆と別の場所を走っているような気がしてきた。」
あはははは…
杉山さんのこのとぼけた感じがたまらなく。
さてわたし自身はというと、
周回遅れなら
皆さんと同じ向きで走っているからいいようなものの、
ひょっとして、
反対方向に走っているのに、
好い気になってすれ違うひとに
「よっ!」なんて、
寅さんみたいに声をかけていないとも限らない。
おそらくそんなところでしょう。
杉山さんは、
二〇一二年五月一九日に亡くなられました。
享年九十七。

・さくら散り陽光樹々を照らしけり  野衾

黄緑

 

・ウグイスや晴れて人閒選挙也

風邪も治り、
体調が戻ってきましたので、
この世の選挙に出向いてまいりました。
桜はほぼ散って、
青葉若葉に陽があたり、
向こうのお山がかすんで見え。
こうなると、
ただ歩いているだけでワクワクしてきます。
錆色のシャッターにも
ひかりがあたってキラキラし。
シャッター街もそんなに悪くないじゃない。
軒下の黄色い花が目に鮮やか。
季節がそうなのか、
風邪が治って
ひと皮むけたとでもいうのか、
とにかく、
どうもどうも。
皮肉めかして物言う人にも
どもどもどうも。
ありがとう♪
だんだんバカになっていくような。

・花散るや花嫁去りし農家にも  野衾

老いのイニシエーション

 

・春暁や烏の声も懐かしき

恩師竹内敏晴の書に『老いのイニシエーション』がある。
六十歳、
いわゆる還暦のあたりをピークとして、
生体としてのエネルギー放出の仕方が変わる
ことに触れているが、
昨晩、
三十九度近い熱に喘ぎながら、
そのことをつらつら思い出していた。
土方巽は五十七歳で、
野口晴哉は六十四歳で亡くなっており、
心身のエネルギーを一気に爆発させるような生き方に
自戒の念をこめ、
警告を発していたのではなかったか。
手もとに今、
本がないので、
正確ではないと思うが、
竹内さんも、
六十歳前後に、
坂道に駐車していたクルマのブレーキが外れ、
動き出した無人のクルマに
撥ねられたことがたしかあったはず。
仕事でも、
人との付き合いでも、
もう若くないことを
もっと自覚する必要がありそうだ。

・春暁の音蒼穹にひびきをり  野衾