親身

 折れた鎖骨の状態を診てもらうため仙台の瀬上先生のもとへ。久しぶりの仙台は駅前がさらに広くなり、旧のおもかげが薄くなったとは言うものの、すこし横に外れれば、広瀬川ながれる岸辺のなつかしさは格別。
 先生は春風社から本を3冊出している。『明治のスウェーデンボルグ』『魚と水』『仏教霊界通信』。医者であること、医者の仕事を深く考えながらの著作であることを今回目の当たりにした。
 診察室の外の椅子に座っていたのだが、扉は開いていてカーテンが閉まっているだけ。内容までは聞き取れないが、(だから余計に)先生と患者さんとのコミュニケーションの質が声を通して感じられる。親身になって話を聞き、不安を取り除き、相談に乗ってあげていることがすぐに分かった。
 前もってレントゲン写真を撮ったあと、ふたたび待合室の椅子に座って待つこと数分、わたしの名前が呼ばれ、中に入ると、なつかしい先生の温顔に接し思わず涙がこぼれそうになった。先生は、レントゲン写真を見ながら説明をしてくださった。素人のわたしが理解したところでは、通常の鎖骨骨折ではなく、心臓よりも遠い遠位端骨折で、処置としては脱臼の治療に近い。手術せず、そのためのベルトで矯正する方法を取りましょうということになった。さらに2階の大掛かりな機械のある部屋で、モニターを見ながら先生の話に耳を傾けた。わたしの鎖骨は、ちょうど跳ね橋のような状態になっており、肘を持ち上げ肩のところを上から押えつけるようにすると、橋がつながるように折れた骨と骨が近づくのが見える。わたしの不安はだんだんと解けていく。それからまた診察室に戻ったのだが、付き添ってくれた看護婦さんが「痛かったでしょ」と声をかけてくれた。その声と笑顔にまた感動。ここの看護婦さんたちは作り物でない何かほのぼのとした地が見えるようだ。
 診察後、先生にそのことを告げたら、スタッフに恵まれています、最高のスタッフです、と仰った。「スタッフによく言うのは、診る側、診られる側を区別してはいけない。今たまたま診る側の人間になっているけれども、いつ自分が怪我をしたり病気をしたり、また家族のうちの誰かがそうなるかも分からない。そうなったら、上から人を見るようなことはできなくなるはず。相手の身になること。それはどの仕事にかぎらず大事なことでしょうけれどもね。まだ自然が失われていないこういう土地柄のせいかも分かりません。奥邃先生も、生涯、仙台の土地の空気を大事にされた方ではなかったでしょうか…」
 先生のご父君も医者だったという。子供の頃から患者さんと膝を交えて話す父の姿を見て育ったそうだ。医者というのはそういうものだと疑いもなく思ってきたと。
 親身について、ぼくの好きな国語辞書『大辞林』にはこうある。【親身】?血縁の近い人。身内。近親。?肉親のように心づかいをすること。また、そのさま。例文「親身になって世話をやく」
 病院を出た後、秋田の実家へ電話をしたら母が出て、声を詰まらせ何度もよかったよかったと言った。