一字

 小社から『ナショナリズムと宗教』を近々刊行予定の著者から編集担当のたがおにありがたいメールが届いた。ていねいに校正・校閲をしたことへのお礼のメールで、わたしが褒められたこと以上にうれしく、全文ここに掲載、自慢したいぐらいだが、そこをぐっとこらえ、文中にあった「文章そのものの校正」「身体的関係性の結びつき」について考えたい。
 本をつくる場合、まず原稿をザッと読み、ここは要らない、ここはもっと厚く、タイトルを変えたほうがいい、装丁は? 中の写真は? レイアウトは? 等々、著者に提案し、よく相談する。これはそんなに時間がかからない。問題はその後だ。
 編集者でなければ手をつけてはいけない、また、編集者の特権である校正・校閲の仕事が待っている。一字一句おろそかにしない校正・校閲とはどういうことか。人にもよるが、平均して、四百字詰め原稿用紙一枚につき十分ないし十五分かかると考えたほうがいいだろう。一時間で四〜六枚。十時間やっても四十〜六十枚。ほかの仕事もあるからゴッソリ十時間確保できることはない。さて、そうやって何をしているかといえば、著者が思考する際の身体的リズムに編集者みずから同調している。著者がリズミカルに思考すればこちらもリズミカルになり、とどこおればこちらもとどこおる。そうやって三百枚なら三百枚、千枚なら千枚読みすすみ、気になるところに朱を入れる。そのうえでふたたびタイトルや構成や装丁を考える。
 この「一字一句おろそかにしない校正・校閲」を、わたしは今は亡き安原顯さんから教わった。安原さんは天才だから、われわれのようには時間がかからなかった。
 わたしが最近体験したことでいえば、本当に一字のことがあった。小社PR誌「春風倶楽部」に演出家の竹内敏晴さんの「変容するからだとことば」を連載しているが、次号の原稿をFAXでいただいたとき、最後のところがどうもしっくりこないという旨のことばが添えられていた。何度もていねいに読み、わたしもなんだかしっくりこないと感じて、うんうん唸った。シロクマのように机の周りをぐるぐる回ったかもしれない。やがて「!」と膝を打ち、ほかには一切手を入れず、最後の文の助詞を一字だけ換えて竹内さんにFAXした。間もなく竹内さんから電話が入り、これでお願いします、と言われた。
 『ナショナリズムと宗教』の著者は、たがおとの今回の仕事を「はじめての刺激的な体験です」と言ってくれている。「肉体関係を持っている感覚」という際どい表現もつかって。でも、著者と編集者というのは、そういう関係にならなければおかしいとわたしは考える。でなければ一生をかける仕事ではない! うん。あくまでも文章を介してということだが…(あたりまえか)。