根のあるはなし

 

哲学者・小野寺功(おのでら いさお)先生の本を、増補したものを含め、
これまで七冊、春風社から上梓しました。
そのうち二冊はことし。
今年刊行した二冊を担当したこともあり、
よく電話でお話を伺い、
いまもちょくちょく電話をしては、いろいろ面白いはなしを教えてもらっています。
先生の話を伺っていると、
何ごとによらず、
なんと言うか
(そうそう、先生は「なんと言うか」が口ぐせ)
勇気が湧いてきます。
なんでか、
と不思議な気もしますが、
どうやら、
先生の思索、それに基づくことばの一つ一つが、大地に根を張っていて、
そこから豊かに養分を吸い上げているからかな、
と。
新井奥邃(あらい おうすい)を最後まで世話した中村千代松の文章に、
新井先生ほど偉い人を見たことがない、
それは、
新井先生には根があるからだ、
というのがあり、
わたしは新井奥邃を直には知りませんので、
中村の感じ分けの微妙なところは分かりませんが、
小野寺先生の文章、話しことばに、
わたしは根を感じます。
そういうことを踏まえつつ、
思想の「根をめぐって」先生と対談、
というか、
いろいろお話を伺い、
一冊にまとめたいと考えています。

 

・冬の駅舎窓越し鳶旋回す  野衾

 

本が見つかる

 

自宅の本棚は五本あり、ゆるくジャンルに分けれていますが、
本が増えるにつれ、
一列に並べた板の手前にスペースがあると、
そこにも本を並べたり重ねたり、
そうすると、
奥に在る本の背文字が見えなくなり、記憶にたよって、目当ての本を探すことになります。
この頃はさらに、
本棚に収まり切らない本が増殖し、
廊下にある二つの収納スペース、居間の天井に取り付けられた収納スペース、
テーブルの下、一人用ソファの後ろ等々、
それぞれの場所において、
二重三重に重ねられ、
ほとんど、何といったらいいか、いわばブロック状態を呈してきました。
こうなりますと、
ふと思いつき、目当ての本を探す段になった場合、
すぐに見つかればいいけれど、
そうでないことのほうが圧倒的に多く、
ブロックを順繰りに解体していった果てに、
そこにないとなると、
ほとほとほとほと疲弊します。
さて、
きのうのこと、
ずっと前に買って、読まずにいた本を、
いま読まなければいけないという心理的欲求がにわかに生じ、
たしか、この辺りに置いたはず、
と狙いを定め、
ブロックを崩していったら、
あ!
あったあった!
ほっほうっ!
ふふふ。いいぞ。なかなかやるな、オレ!
自画自賛。
家人外出中のこととて、独り、にんまりしていたかもしれない。
こころに余裕が生まれ、
サイフォンでコーヒーを淹れ、
ソファに深々と腰掛け、ゆったり、まったり。
探し当てた本を読まないのに、
なんだかすっかり満足し。
というわけで、
なかなかの、
いい勤労感謝の日でありました。

 

・在来線すすきが原を行く日かな  野衾

 

わたしより近く

 

神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。
私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。
私自身のみならず、
一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。
ただこれらのものはそれを知らないだけである。
もし木片が最高天使と同じ程度に神を認め識り、それがいかに己れに近いか
を自覚するとすれば、
それは最高天使とその祝福を等しくすることであろう。
実に人間が木片よりも祝福されているのは、
彼が神を知り、
神の己れにいかに近いかを知るからである。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、p.294)

 

このあたりに、エックハルトの真骨頂が表れていると感じられ、
ひいては、
ヨーロッパにおける、精神分析、心理学のルーツもあるのではないかと、
想像がふくらみます。
年齢を重ねるにつれ、うきうきすることが少なくなり、
他方で、
気持ちのありようと同調するように、
しずかに、ゆっくりと、
なにかを確かめるように歩くことが多くなった
ように感じますけれど、
そうすると、
一個の石、ひと切れの木片、一枚の落葉に、自然と目が行くようになりました。
なんてきれいな色、なんておもしろい形、音までも。
こんな気持ちになるなんて。
ヘ、ヘ、
ヘックション!

 

・ふるさとは黙しの秋の降り積もる  野衾

 

両刃の剣

 

あなた方は、
言葉によって愛や悩みの感情に移し入れられる間は自分自身を不完全であると思って
いられるかも知れない。
しかし決してそんなことはいえないのである。
キリスト御自身ですらそのような意味の完全さはもち給わなかった。
「わが心いたく憂いて死ぬばかりなり」
(マタイ伝第二十六章第三十八節参照)
という彼の御歎おなげきがそれを証拠立てている。
キリストすら言葉によってかくも悩まされ給うたのであって、
その御悩みの大いさは、
一切の被造物の経験する全ての苦悩が一個の被造物に集中して襲いかかる
ことがあろうとも、
キリストの嘗め給うた苦しみには及ばないほどである。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、p.289)

 

言葉によって励まされ、背中を押され、生きがいを感じて、
ふつふつと勇気が湧いてくることがあるその一方で、
なにげない、
ほんのちょっとした言葉なのに、
頑迷で、自己中心的と感じられる言葉にいたく傷つくことがあります。
じぶん自身、
知らぬ間にそうしてしまっているかもしれません。
孤独は独りだからではない。
相手がいて、
言葉によって平らな地面にいきなり穴が開き、
孤独の底へつき落とされる、
というのが実際のよう。
そうなったら、
だれかに打ち明けるわけにはいかず、
気晴らしすることも叶わず、
まして、
傷つく言葉を発した人との対話を望んでも、
おそらく答えは見つからないだろうと思えるとき、
まずは、
目の前のなにか、
たとえば、切らなくてもいい爪を切ったり、周囲を二度、三度と見回し、
それから利休鼠の空をぼんやり眺めてみたり、
また、
冬の蜘蛛のように、
じっと息を殺してじぶんを守るぐらいしかできなくなる、
言葉はまさに両刃の剣です。

 

・ふるさとの川面群れ飛ぶ秋茜  野衾

 

離在せる心

 

ある師の次のような言葉はここに適用することができるだろう。
それは、
「心の貧しき人、
その人は神に万物を委ゆだねてしまったひとである。
すなわち神が万物を、
我々が未だ存在していなかった時保ち給うていたそのままの状態に保ち給う
のをよしとした人である、かかる人は幸いなるかな」
というのである。
かくのごときことは純粋に離在せる心のみのできることである。
神はどのような心によりも離在せる心に好んで在《いま》し給うことは、
次のようなことでわかる。
もしお前が、
「神はすべてのものの中に何を求め給うか」
と問うならば、
私は智慧ちえの書の次の個所を引いて答えるのである。
それは神が
「すべてのものの中に我は平安を求む」
といい給うているところである。
ところで全き平安はただ離在せる心以外には決して存在しない。
それ故に神は、
いかなる物いかなる徳の中においてよりも離在せる心の中に在ることを喜び給う。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、pp.202-3)

 

エックハルトを研究されている方が来社されることになりましたので、
手元にある本を読み返しました。
こういう箇所を読むと、
西田幾多郎や田辺元がエックハルトを好んで読んでいたことが分かる気がします。
また、
このごろお話を伺う機会の多い小野寺功先生がよく口にされる
「絶対無即絶対有」
の七文字ともひびき合うようです。
ごくシンプルなことを、
いわく言いがたいシンプルなセンチメントを、
シンプルさの境地を一切損なうことなく、
言葉で表現するとなると、
そのおののきのようなところに意を用いて、
かえってむつかしい文字を使わざるを得ないのかもしれません。

 

・此処かしこ故郷背高泡立草  野衾

 

好日

 

ステンレス製の腕時計ベルトが壊れてしまい、
さてどうしたものかと思いつつ、
時刻を知りたくなったら、いまどきスマホで間に合うし、
このまえテレビを見ていたら、
腕時計を持っていないという芸能人もいて、
わたしは芸能人でないけれど、
また、
芸能人の真似をするわけでもないけれど、
いそがしい芸能人が腕時計をしていないのなら、
それほど忙しくないわたしが腕時計をする必要が、そもそもあるだろうか、
と疑問に思い、
本棚の空きスペースに置いて、
しばらくそのままになっていました。
が、
ときどき気になり、
これは、
必要か不必要かの問題とはちがうのではないか、
とふと感じ、
そういえば、以前、
十年以上前になるだろうか、
野毛にある時計店で直してもらったことがあったような…。
出勤前、記憶を頼りに訪ねてみた。
あった、あった。
ここだ。
なかに入ると白髪の店員が対応してくれた。
椅子を勧められたので、それに腰かけたまま、職人さんの作業を黙って見ていた。
職人さんは、
問わず語りに、ゆっくり、静かに、
時計のことを教えてくれた。
いまの時計は、総じて修理がむつかしいらしい。
すき間なく作られているので、取り外し困難なものが多いのだとか。
わたしのも、バネ棒がなかなか外れなかった。
汗でさび付いているのかもしれない。
外れなければ、交換はできない。
結局、
友人の歯医者から譲ってもらったというとっておきの歯科の道具をつかい、
やっと、外れた。
外れれば、
あとは新しいベルトと交換するだけ。
ちょっと考えて、
ステンレス製のベルトを止め、
革のを所望した。
お代を払い、左の手首に時計をし、お礼を言って外へ出た。
会社まで歩き、一日の仕事をこなし、家に着いて食事をし、風呂に入るときは外したけれど、
なんとなく、しずかな嬉しさがつづいていたから、
また左の手首に腕時計をし、
そのままふとんを被って眠ることにした。

 

・水面にわが身映して枯葉散る  野衾

 

時間と自由

 

そうなると、異なったふたつの自我が存在することになる。
一方の自我は、本来の自我が外界に投影された影絵のようなようなもの、
その空間的表象であり、こう言ってよければ、社会的表象である。
本来の自我に到達するためには、
反省的思索をさらに深めることによって、
われわれの内的諸状態を、絶えず生成途上にある、生きた存在として捉えなければならない。
また、
数量的計測になじまないものとして、相互に浸透し、
持続のうちにおいて継起するものとして、
等質空間のうちに並置される外的事物とはまったく異なったものとして、
捉えなければならない。
しかし、
われわれが自らをそのような状態で捉えることができる瞬間は稀であり、
それがゆえに、
われわれが自由である瞬間も稀である。
ほとんどの場合、
われわれはわれわれの外で生きていて、
本来のわれわれの色あせた亡霊しか、
純粋持続が等質空間に投影した幻影しか認知していない。
われわれの実存は時間のなかではなく、空間のなかで営まれている。
われわれは、
われわれ自身のためではなく、むしろ外的世界のために生きている。
われわれは思考するよりも、むしろ語っている。
われわれは「行為されている」
のであって、
自らの意志で行為しているのではない。
自由な行為とは、
自己の認識を取り戻すことである。
自由とは、純粋持続のうちにわが身を置きなおすことである。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、pp.221-222)

 

小学生、また中学生のころ、
じぶんて何だろう、自由って何だろう、生きているってどういうことだろう、
みたいなことを、
「考えて」いたのではなく、
なんとなくぼんやり、疑問に「思って」いたような気がします。
はじまりの哲学。
しかし、
そういうことは、あまりにぼんやりとしていて、
まるで雲をつかむような話なので、
また、
どう言葉にしたらいいのかも分からないから、
友だちに話すこともないし、先生に尋ねることもありませんでした。
子どものころに、
ぼんやり、思っていたり、感じていたことを、
忘れずに持続のうちに温存しつつ、
それを、時を得て、じぶんが納得できるように言葉にする。
そこに自由があると、
ベルクソンさんは語ってくれているようで、
これが初めて
ではありませんけれど、
真の友を得たような気になります。

 

・ひかりの公園ひかりの枯葉散る  野衾