理解を超えることば

 

一日一ページずつ読む本がいくつかあるなかで、『リジューのテレーズ 365の言葉』
は、帰宅後すぐに手にとります。
編者はレイモンド・ザンベリさん、
編訳者は伊従信子(いより のぶこ)さん。
2011年に女子パウロ会から刊行されています。
わたしが持っているのは4刷。
著者のテレーズ・マルタンさんは、フランスのカルメル会修道女だった方。
1873年に生まれ1897年に帰天されていますので、
24年の人生でした。
この本に、
むつかしいことばはでてきません。
むつかしいことばがでてきてほしいと思うくらい、
ことばそのものは、むつかしくない。
みじかい時間なら、暗記して口にだして言えるぐらいですが、
そうしたからといって、
どうにもなりません。
テレーズさんの自伝に『小さき花』
がありますが、
道の横に咲いている小さい花を目にし、しばし立ち止まり眺めるときがありますけど、
そんなふうにして読むのがせいぜいです。
5月27日のページに、
こんなことが記されています。

 

くよくよすることは、わたしたちのためになりません。
こういう場合は、自分から出て
急いで愛のわざを追いかけるようにすることです。
神さまは無理に自分とつきあうようにはおさせになりません。

 

・にぎはひを冷まして静か五月雨  野衾

 

体力勝負

 

おおざっぱな言い方をしますと、何ごとにつけ、
だいたいポジティブ・シンキングを心がけるようにしています。
そう考えることで、
日々を少しでも明るく過ごせればと願う今日このごろ。
ネガティブよりもポジティブ。
加齢によるいろいろも、
赤瀬川原平さんの「老人力」に習い、悲観的にならぬよう極力気をつけています。
が、
きのうのことです。
日々のささやかなこころがけではカバーできない出来事が起こりました。
「お先に失礼します」
社にいる皆さんに挨拶をし、荷物をもって退室。
と、ん!?
なんだかとっても身が軽い。
ん!?
あっ!!!
リュ、リュック忘れた!!
じぶんで驚いた。身が軽いはず。小さなトートバッグと本を入れた布の袋は持ったのに、
肝心のリュックサックを忘れているではないか。
じとーっ。
脇の下に変な汗。
回れ右して、何も言わずに、退室したばかりの社に戻り、
静かに堂々と歩を進め。
机の横に置いてあるリュックをおもむろに手に取り、
ゆっくり背中に背負い、そろ~り、
ふたたびの退室。
だれも何も言わない。無言で机に向かっている。
ほ。
よかった。たすかった! 気づかれてない!
胸をなでおろす。
それから、
何ごともなかったかのように家にたどり着いた。
以上、
一連のことを家人に報告したところ、
いわく、
「きっと、みなさん気づいていたと思うよ。あら!? シャチョー、どうしたんだろう?
そう思っていたわよ」。
そうか。
そうだったのか!
でも。
と、ここでポジティブ・シンキング。
土、日も出勤し、ただいま鋭意集中して読んでいるゲラがあり、
つづきをきのうも読んでいた。
一ページが約五分として十ページで五十分。
気になることを調べ始めると、
十分、二十分はすぐに経つ。
休憩をはさんで三時間もつづけると、ヘロヘロに。
ことばを追いかけ読むのに、
アタマはもとより、こんなに体力を使うのかと改めて思い知らされます。
そうか。
集中して仕事をしたせいか。
そのせいでリュックを忘れたのか。そう思うことにしよう。
そうだそうだ。
でもな。
すこし無理がある。

 

・新緑や開けて黙示の音を聴く  野衾

 

子どもの宝物

 

まえにもこのブログで取り上げたことがありますが、
わたしが一日一ページずつ読む本に、
大塚野百合・加藤常昭編『愛と自由のことば 一日一章』があります。
日本基督教団出版局から
1972年12月15日に発行されたものです。
こういう日めくりのような本がいくつか出ていますが、
おもしろいのは、
毎年読んでいると、
年によって、印象が変ること。
本のことばは変っていないのですから、読む側の変化、
と思うしかありません。
5月29日のページに、ポール・トゥルニエさんの文章が載っていました。

 

子供の考え方を理解しない親たちは、
よく、非常に手のこんだおもちゃを子供に与えます。
それは値段も高く、
技術的にも精巧であるという点で大人の目から見ると高価なおもちゃ
であることはたしかなのですが、
こうしたおもちゃは、
非常に現実に密着した、
日常生活に実際に用いられている道具や機械の模型にすぎません。
ところがおもちゃが精巧になればなるほど、
子供が自分の内部から、
つまり自分の想像力や詩的空想ポエジーから何かをそれにつけ加える余地
がなくなってしまうのです。
子供はむしろ一本の紐とか棒切れ、または一枚の紙切れで遊びます。
こうしたものは、
どんなものをも表わすことができるし、
努力して操作をおぼえる必要もありません。
こういう単純なものが子供にとっては宝物なのです。
これこそが、
私たち大人が大切にしてやらなければならない宝物なのです。

 

トゥルニエさんの元の本は、三浦安子さんの訳で1970年にヨルダン社から出た
『人生の四季』とのこと。
さて、
引用した文章のなかに「棒切れ」が出てきます。
あれは、わたしがまだ小学校に入るまえだったと思います。
わたしはよく、
家の周りに落ちている、てきとうな棒切れを二、三本、腰のベルトに差して遊んでいた。
いっぱしの少年剣士、いや、
子ども剣士になったつもりだったのでしょう。
まだ家にテレビがない頃のことで、
どうしてああいう恰好をしたかったのか、
我がことながら、
いまとなっては謎です。
が、
小躍りするようなあのワクワク感、嬉しさ、喜びはこころの奥に仕舞われて
いるようです。

 

・休日のわつぱがでぎだ夏夕焼け  野衾

 

ことばが降ってくる

 

じぶんと同じ年頃の人の文章を目にすると、ほとんど例外なく、
ニュアンスはそれぞれなれど、
もの忘れが以前と比べひどくなったことが記されてあり、安心します。
安心、というのも変だけど。
安堵、かな。
ともかく。
耳で聴いたことばも、目で読んだことばも、
早々に忘れがち。
は~。
いったんは、ちょっと落胆気味になりますが、待てよ、と。
忘れがちな日常に反し、
アイディア
というほど大げさなものでなくても、
いろんな想念は浮かんできて、
一大発見みたいにも感じ、うれしくなることがあります。
もの忘れと発見的想念!
名づけると大げさになるなぁ。
ともかく。
もの忘れはたしかにひどくなっているけど、
耳から入ることば、目から入ることばの量は変らず、というか、
以前と比べむしろ増えているかもしれない。
それで、
仕事に関わる忘れていけないことは、
ノートを意識的に活用するなど工夫していますが、
それ以外は、
忘れてもいいや、の精神でいることが多い。
でも、
ふと、忘れることは無くなることではない気がしてきた。
なぜなら、
発見的想念がたまにやって来るから。
その連関、
つながりについて考えた。
耳から入ることばについても言えますが、
目から入ることばとして、
特に思ったのは、日々仕事で読んでいる、原稿のことであります。
仕事で読む原稿のことばが圧倒的に多い。
圧倒的な量のことばを読み、編集し、本が仕上がる。
と、
あんなに時間をかけて作ったのに、
おもしろいように忘れていることがある。
でも、
あるとき、どういうタイミングでか定かではありませんが、
あるアイディアが不意に浮かび、
あら? あれ?
これって、
あの原稿を何度も読み、編集し、本を作ったこと、本の内容と、
どこかでつながっていやしないか?
つながっているよ、
そうだそうだと思えてくる。
山に雨が降るように、
原稿を精読し、本の編集をすることを通じて、原稿にあることばが
わたしに降ってくる。
そして、
降った雨が、時をへて、離れた土地の湧水となるように、
わたしの中からあるアイディアが生まれる。
そう考えたら、
忘れることを恐れず、目の前の原稿に向かうことが、
ますますだいじに思えてきた。
原稿に感謝。
わたしは土で、
土のわたしにゆっくり、
ことばの雨が静かに浸み込むことを願いながら。

 

・読み疲れ五月晦日の本を閉づ  野衾

 

くもりガラス

 

ちょっとまえ、と言っても、だいぶ経ちますが、
大川栄策さんが歌う「さざんかの宿」がヒットしました。
大川栄策さんは、好きな歌手の一人ですが、
「さざんかの宿」をカラオケで歌ったことはありません。
わたしの義理の叔父が、よく酒の席で朗々と歌い上げていました。
応援歌を歌うような、その朗々たる歌い方が、
歌詞から受けるイメージとちがっていて、笑った。
「さざんかの宿」の歌いだしは、
「くもりガラスを手で拭いて」であります。
手で拭いて、ですから、内と外の気温差によって曇ったガラスのことを言っている
のでしょう。
歌いだしのその歌詞を、ふと思い出しました。
というのは、
人と接していて、
相手のことばを耳にするとき、
ことばは、内にあるものを垣間見せてくれる窓のようなものかな、
と思ったからです。
人と人とのつながりは、
内と外の気温差によって曇らされたガラスのようなもの?
そんな気もします。

 

一般に、人間と人間との関係のなかには、
わたしたちが通常みとめているよりも、はるかに多くの神秘がひそんでいる
のではないだろうか?
何年もまえから毎日いっしょにくらしている相手であっても、
ほんとうにその人を自分が知っているとは、
わたしたちのだれも主張するわけにはいかない。
わたしたちはどんなに親密な人たちにも、
自分の内的体験をつくりあげているものの断片しか伝えることができない
のである。
全体を示すというようなことはできないことだし、
できたとしても、
相手がそれをとらえることはできないだろう。
わたしたちは、
互いに相手の顔形をはっきり見わけることのできない薄暗がりのなかを、
いっしょに歩いているのだ。
ただ、ときおり、
わたしたちが道づれとなにかを経験したり、
互いにことばをかわしたりすることによって、
一瞬のあいだ、
稲妻に照らし出されたように、わたしたちのそばにその道づれのいることがわかる。
そうしてそのときわたしたちは、
相手の様子を見てとる。
が、
それからまた、
おそらく長いあいだ、暗がりのなかを、ならびあって歩いて行く。
そして相手の顔形を思いうかべようとしても、
それができない。(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』
白水社、1965年、pp.307-308)

 

・映画館出でてこの世の新樹光  野衾

 

たとえについて

 

たとえのことを比喩といったり、譬喩といったりします。
読みはどちらも、ひゆ。
『新約聖書』を読むと、
イエスが、たとえをもって話をする場面がたびたび出てきます。
弟子たちが、
このたとえはどういう意味でしょうか、
とイエスに質問すると、
イエスは、
「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、
ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、たとえで話すのである」
なんてことをおっしゃる。
こういう箇所を読むと、
ちょっと意地悪な印象を持つわけだけど、
なるほどと納得したり、おもしろくも感じます。
奥義を悟られないためにイエスがたとえをもって語っても、
奥に隠された意味を
イエスは説き明かしてくれますから、
なるほどそうか、そういう意味か、
と腑に落ちる。
しかし、
そこで、ふと思う。
世にいろいろなたとえがあるじゃないか。
そうすると、
たとえには、『聖書』を離れ『聖書』とは関係なく、
隠された意味があるかもしれない、
あるのではないか、
だとしたら、
どんな意味が隠されているのだろう。
それを考えるのは、
たのしいことなのではないか。
漢字の譬喩(ひゆ)の「譬」も「喩」も一字で「たとえ」と読むけれど、
「喩」には、
「さとす」「さとる」の意味があり、
さらに
「こころよい」「たのしむ」「やわらぐ」「やわらぎよろこぶ」
という意味もある。
だとすると、
たとえ、もっと広くいうと、ものがたり
というのは、
味わい楽しみ
(それで十分なわけだけど)
欲ばって、
たとえに隠された意味をさぐり、さとる、
そういうこころや楽しみ方も譬喩にはありそうだ。

 

・夏の空神話と譬喩を産む日かな  野衾

 

「好き」の風

 

くり返し読む本がいくつかありますが、『聖書』はその筆頭でありまして、
休日出勤し、ひとり静かに考える折など、
『聖書』を読んでいなければ、出版社を起こすことも、
『新井奥邃著作集』を出版することもなかったかもしれない、
いや、なかっただろう、
『聖書』は、
そんなことを瞑想させる不思議な書物であります。
またくり返し読んでいると、
日常の、
見るもの、聴くもの、触れるもの、ふとした出来事に遭遇した際、
『聖書』のなかのあることばが、
『聖書』のなかの文脈から離れて思い出される
ことが間々あります。
そういう読み方は、まちがっているかも知れませんが、
断章取義ということもあるぐらいですし、
連想は、
たのしくもありますから、
目の前のことを考えるきっかけ、よすがにしています。
せんだっての、
『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』
に登場した「踏切大好き博士ちゃん」
が番組内で発した
「なんだか楽しい」を聞いたときがそうでした。
「ヨハネによる福音書」に、
「風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。」
ということばが出てきます。
これは、
ニコデモという人にイエスが語ったとされることばの途中。
このことばの前があり、
後につづくことばもあり、
イエスの語った文脈からは離れてしまいますが、
文中の「風」が博士ちゃんの「なんだか楽しい」に重なり、響きあう
ような気がしました。
なにかを、だれかを好きになり、
「なんだか楽し」くなり「なんだか好き」になる
のは、
ひょっとしたら、
楽しいと感じ、好きだと思う「わたし」の内からのものでないかもしれない。
「好き」の風が外から吹いてきて、
その音を聞く。
「好き」のこころが植えられる。
だけど、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。
博士ちゃんは
「ちゃん」が付いているぐらいですから、
少年少女ですけど、
年齢に関係なく、
「好き」の風は吹くとも思えます。

 

・幾百年田植ゑ日和の農夫かな  野衾