とじぇねわらし

 

さびしいことを秋田弁で「とじぇね」、
こどものことを「わらし」、
したがって、
「とじぇねわらし」は「さびしいこども」
ということになります。
この三月に
「とじぇねわらしと学術書」という拙文が
秋田魁新報の文化欄に掲載されました。
遅ればせながら、
お読みいただければ幸いです。
こんなふうにして
学術図書の出版社をやってまいりました。
コチラです。

 

・荒梅雨や保土ヶ谷宿に留まりぬ  野衾

 

被災地の声

 

東日本大震災が起きたとき、
わたしは会社にいた。
あの日、
遠くから来ている者は会社泊、
わたしは国道一号線を歩いて保土ヶ谷の自宅へ帰った。
あれから七年がたつ。
昨年の秋ごろから、
体の不調に悩まされ、
医者にかかり、
体重が減り血圧が下がって歩くことすらままならない日を送った。
わたしの知らないところで
体とこころに
余震が襲っていたかもしれない…。
縁ある方から
石巻からの手紙」という訳詩をお預かりした。
石巻を訪ねた日のこと、
あの日の空気感までがすぐに蘇った。
第二連一行目に
「空っぽの窓枠のうつろな視線」
とある。
石巻を訪ねた日にお会いした方々の視線と重なる。
あれから七年、
ひとりひとりの日常は癒されたろうか。
いま何を視ているだろう。
こころのなかに池があって、
ひとしれずの波紋があとからあとから、
黙する声を届けてくる。

 

・荒梅雨や平成がゆく猫二匹  野衾

 

怒りについて

 

古くはセネカ、近くはティク・ナット・ハンなど、
人間の怒りについて書かれた本は多く、
それは、それだけ
怒りを抑え
平常心でいることの
いかに難しいかを証するものなのでしょう。
怒りは、
正しさといっしょになれば義憤というわけですから、
悪感情とばかりもいえないわけですが、
コンプレックスといっしょになると
戦を好むようにもなり、
やはり、
感情本位を避け、
事実本位であることが肝要のようです。
さてわたしが子どものころ、
わたしの左どなりに祖母、右どなりに祖父が眠っておりました。
寂しさはあったけれど、
とくに不安も心配もなかった。
祖母が去り祖父が去って
わたしの左どなりには寂しさが、
右どなりには怒りが居座り眠るようになった。
両どなりを起こさぬように
しているけれど、
たまに目覚めさせてしまってあたふたと。
森田正馬を読みながら、
われについて考えることが多くあり、
病院ぎらいは仕方ないとしても、
寂しさも恐怖心も
天気をながめるごとくにながめる
ようになれればどんなにいいか、
そうなれれば
と願っています。
これまた日々の修行。
怒りも、
寂しさや恐怖心と同じく
しばらくそのままかまわずにいると、
ながれてどこかへ行ってしまう。
通り雨といいますし、
嵐だってやがては過ぎていく。
きょうの天気は晴れ、暑くなりそうです。

 

・走り梅雨何の予兆の利休鼠  野衾

 

声のわるい烏

 

ここ保土ヶ谷の山の上に
声のわるい烏がおりまして、
どうわるいかというと、
痰がからまったとでもいえばいいのか、
カーカーでなく、
ガララガララガララ。
(「ラ」を小さく表記したい)
しかも、
声を発するときに、
園児が両手を後ろに回してむすび
体を律動させながら歌うのに似て、
ひどく上下に体を揺らす。
声が悪いので
スムーズに発声できないのでしょう。
なんだか
とてもがんばっている。
見ていて、
ちょっと気の毒。

 

・旅人の旅の疲れやうつぼ草  野衾

 

意味でわる

 

新井奥邃先生記念会で
奥邃の言葉そのものを読んでみよう
ということになり、
今年が三回目。
えらんだ文章をわたしが読み上げ、
その後、
むずかしいと思われる語の説明を
みじかくする運びですが、
全共闘世代だという方にいくつか質問されました。
が、
その質問に言葉でこたえることが
なんとなく
正しくないような気がしたので、
ただ、
「わかりません」
とだけ申し上げた。
「ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない」
ということもありますから。
田村隆一の詩「言葉のない世界」
最終連にある言葉。

 

・ベランダに野良猫来る五月雨  野衾

 

冷暖自知

 

中村元の『広説佛教語大辞典』によれば、
冷暖自知の説明として、
「水の冷たさやあたたかさは、
飲む者が自分で経験する以外に知る方法がないように、
さとりも自分で実践体得する以外に知る方法がないということ。
他人には教えてもらえないこと」とある。
『無門関』『正法眼蔵』にでてくる。
本を読むということも
だれかに代わってもらうことはできなくて、
自分で読みながら
感じ味わい
考えるしかない。
極端なことを言えば、
情報を得るだけなら、
めんどうで時間のかかる読書は要らないかもしれない。
しかし、
正しさもたのしさも、
また
おもしろさをみずから知るには、
めんどうな読書を
自分に課すしかありません。
アウグスティヌスの『神の国』に、
人間に罪が入る前には
男は性器を自分の意思で動かすことができた
なんてことが書かれてあり、
電車のなかで読みながら吹き出しそうになった。
冗談でなく、
クソが着くほど真面目に弁証しているからくその
もとい、
弁証しているからこその可笑しみ。
解説書などで済ませてしまう
にはもったいない
のが古典だ。
アウグスティヌスがいきなり
となりに来た。

 

・梅雨入より指折り数ふ烏啼く  野衾

 

無意識の発見

 

そういう書名の本がありますが、
本のはなしでなく。
夜中、
はっきりとした言葉で
「ちょっと分からないなぁ、こりゃ」
ん!?
なんだ?
なにが分からない?
俺に話してる?
ほどなく、
なんのことはない家人の寝言であることが判明。
ムニャムニャと不分明
であれば
すぐに寝言と判断できますが、
滑舌よくハッキリ言うから、
そばにいる人間は戸惑ってしまいます。
朝になり
そのことを指摘すると、
なぜそんなことを口走ったのか、
本人まったく憶えておらず、
夢の中身は
永遠に
ふかい闇に紛れることに。
古代遺跡がながいときを経て見つかるように、
夢の中身が発見されることは
あるか、
ないか。

 

・意味避けてそよぐ風あり奥邃忌  野衾