離在せる心

 

ある師の次のような言葉はここに適用することができるだろう。
それは、
「心の貧しき人、
その人は神に万物を委ゆだねてしまったひとである。
すなわち神が万物を、
我々が未だ存在していなかった時保ち給うていたそのままの状態に保ち給う
のをよしとした人である、かかる人は幸いなるかな」
というのである。
かくのごときことは純粋に離在せる心のみのできることである。
神はどのような心によりも離在せる心に好んで在《いま》し給うことは、
次のようなことでわかる。
もしお前が、
「神はすべてのものの中に何を求め給うか」
と問うならば、
私は智慧ちえの書の次の個所を引いて答えるのである。
それは神が
「すべてのものの中に我は平安を求む」
といい給うているところである。
ところで全き平安はただ離在せる心以外には決して存在しない。
それ故に神は、
いかなる物いかなる徳の中においてよりも離在せる心の中に在ることを喜び給う。
(マイスター・エックハルト[著]相原信作[訳]『神の慰めの書』
講談社学術文庫、1985年、pp.202-3)

 

エックハルトを研究されている方が来社されることになりましたので、
手元にある本を読み返しました。
こういう箇所を読むと、
西田幾多郎や田辺元がエックハルトを好んで読んでいたことが分かる気がします。
また、
このごろお話を伺う機会の多い小野寺功先生がよく口にされる
「絶対無即絶対有」
の七文字ともひびき合うようです。
ごくシンプルなことを、
いわく言いがたいシンプルなセンチメントを、
シンプルさの境地を一切損なうことなく、
言葉で表現するとなると、
そのおののきのようなところに意を用いて、
かえってむつかしい文字を使わざるを得ないのかもしれません。

 

・此処かしこ故郷背高泡立草  野衾

 

好日

 

ステンレス製の腕時計ベルトが壊れてしまい、
さてどうしたものかと思いつつ、
時刻を知りたくなったら、いまどきスマホで間に合うし、
このまえテレビを見ていたら、
腕時計を持っていないという芸能人もいて、
わたしは芸能人でないけれど、
また、
芸能人の真似をするわけでもないけれど、
いそがしい芸能人が腕時計をしていないのなら、
それほど忙しくないわたしが腕時計をする必要が、そもそもあるだろうか、
と疑問に思い、
本棚の空きスペースに置いて、
しばらくそのままになっていました。
が、
ときどき気になり、
これは、
必要か不必要かの問題とはちがうのではないか、
とふと感じ、
そういえば、以前、
十年以上前になるだろうか、
野毛にある時計店で直してもらったことがあったような…。
出勤前、記憶を頼りに訪ねてみた。
あった、あった。
ここだ。
なかに入ると白髪の店員が対応してくれた。
椅子を勧められたので、それに腰かけたまま、職人さんの作業を黙って見ていた。
職人さんは、
問わず語りに、ゆっくり、静かに、
時計のことを教えてくれた。
いまの時計は、総じて修理がむつかしいらしい。
すき間なく作られているので、取り外し困難なものが多いのだとか。
わたしのも、バネ棒がなかなか外れなかった。
汗でさび付いているのかもしれない。
外れなければ、交換はできない。
結局、
友人の歯医者から譲ってもらったというとっておきの歯科の道具をつかい、
やっと、外れた。
外れれば、
あとは新しいベルトと交換するだけ。
ちょっと考えて、
ステンレス製のベルトを止め、
革のを所望した。
お代を払い、左の手首に時計をし、お礼を言って外へ出た。
会社まで歩き、一日の仕事をこなし、家に着いて食事をし、風呂に入るときは外したけれど、
なんとなく、しずかな嬉しさがつづいていたから、
また左の手首に腕時計をし、
そのままふとんを被って眠ることにした。

 

・水面にわが身映して枯葉散る  野衾

 

時間と自由

 

そうなると、異なったふたつの自我が存在することになる。
一方の自我は、本来の自我が外界に投影された影絵のようなようなもの、
その空間的表象であり、こう言ってよければ、社会的表象である。
本来の自我に到達するためには、
反省的思索をさらに深めることによって、
われわれの内的諸状態を、絶えず生成途上にある、生きた存在として捉えなければならない。
また、
数量的計測になじまないものとして、相互に浸透し、
持続のうちにおいて継起するものとして、
等質空間のうちに並置される外的事物とはまったく異なったものとして、
捉えなければならない。
しかし、
われわれが自らをそのような状態で捉えることができる瞬間は稀であり、
それがゆえに、
われわれが自由である瞬間も稀である。
ほとんどの場合、
われわれはわれわれの外で生きていて、
本来のわれわれの色あせた亡霊しか、
純粋持続が等質空間に投影した幻影しか認知していない。
われわれの実存は時間のなかではなく、空間のなかで営まれている。
われわれは、
われわれ自身のためではなく、むしろ外的世界のために生きている。
われわれは思考するよりも、むしろ語っている。
われわれは「行為されている」
のであって、
自らの意志で行為しているのではない。
自由な行為とは、
自己の認識を取り戻すことである。
自由とは、純粋持続のうちにわが身を置きなおすことである。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、pp.221-222)

 

小学生、また中学生のころ、
じぶんて何だろう、自由って何だろう、生きているってどういうことだろう、
みたいなことを、
「考えて」いたのではなく、
なんとなくぼんやり、疑問に「思って」いたような気がします。
はじまりの哲学。
しかし、
そういうことは、あまりにぼんやりとしていて、
まるで雲をつかむような話なので、
また、
どう言葉にしたらいいのかも分からないから、
友だちに話すこともないし、先生に尋ねることもありませんでした。
子どものころに、
ぼんやり、思っていたり、感じていたことを、
忘れずに持続のうちに温存しつつ、
それを、時を得て、じぶんが納得できるように言葉にする。
そこに自由があると、
ベルクソンさんは語ってくれているようで、
これが初めて
ではありませんけれど、
真の友を得たような気になります。

 

・ひかりの公園ひかりの枯葉散る  野衾

 

気分変った

 

日曜日、所用で東京に出かけることになっていた家人は、
前日からそのための準備をしていた。
当日も、
朝早くから起き出し、入念に用意を整え、さあ、いざ出陣となったはいいが、
ぽつり「行きたくない」
さらに「行きたくない」
よほど行きたくないらしい。
ちょうどこのとき、
すでにわたしは、
朝のルーティーンと化している面倒この上ないサイフォンによるコーヒーを淹れており、
彼女のテーブルの上にも熱いコーヒーを入れたカップが載っていた。
うす暗い部屋にコーヒーの白い湯気が立ち上っている。
やおら一口、ふぅ~、
また一口。
と、
「あ、気分変った」
なお、もう一口。
そののち、
しばしの間があり。
やがて「行ってくるか。よし。行ってきます」

 

・ひかり浴びひかり放つや枯葉散る  野衾

 

思い出すことは

 

例えば、わたしが、とある町に滞在して、その街路を初めて歩いているとしよう。
そのとき、わたしの周りにある事物は、わたしに対して同時に、
持続するべく定められた印象を与えると同時に、
絶えず変化する印象も与えるであろう。
毎日わたしが見る建物は同じだ。
そして、
それが同じ建物だとわたしもわかっているから、
わたしは変わらずそれを同じ名で呼び、それが常に同じように見えていると思っている。
しかしながら、
長く滞在した後に、
最初の数年間の印象を思い返してみるとき、
わたしはそこに特異な、
曰く言いがたい、
そして特に言葉で表現することができないような変化が、
その印象のなかに生じていることに驚かされる。
長い間わたしの見続けた、
そしてわたしの精神に絶えず思い描かれてきたこれらの事物が、
わたしの意識生活から、何かを借りているのではないかと思われるようになる。
わたしが生きたようにそれらも生き、
わたしが年齢を重ねるようにそれらの事物も年老いた、
そんなふうに思われる。
それは必ずしも単なる幻想ではない。
なぜなら、
今日の印象が昨日の印象とまったく変わらないとしても、
知覚することと再認すること、初めて知ることと思い出すこととのあいだには、
何か違いがあるのではないだろうか?
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、p.126)

 

ベルクソンのこの感じ方、考え方は、プルーストのそれと共通のものであると思われます。
引用した文章のなかで、
とくになるほどと思わされたのは、
「わたしの意識生活から、何かを借りているのではないかと思われるようになる」
という一文。
毎日通いなれた町のなかの、とくに変りばえのしない建物で、
そこに入っていったり出てくる人と付き合いはなく、
また、
建物内に入ったこともないのに、
ある日、解体工事の知らせがでていて、立ち止まって読んでしまうことがあります。
ふと気が付けば、
わたしのほかにも告知の文面を読んでいる人がいて。
おとといと同じきのう、
きのうと同じきょう、
だと、なんとなく感じていても、
少しずつそこに時が降り積もり、ある日、目に見える形で変化が訪れる。
しみじみとした感懐に浸ることになります。

 

・坂上やしずか背高泡立草  野衾

 

驚きのさざなみ

 

秋田に帰省した折の帰り、東京駅から乗った電車内で、ちょっと面白いことがありました。
地下ホームから夕刻四時台の電車に乗り、
まだ会社勤めの人たちで混雑する時間帯でなかったせいか、
すぐにシートに腰かけ、
手持ちの文庫本を取り出して読み始めました。
新橋駅を過ぎた頃、
立っている客がいないのに、
目の前をなにかがすうっと通り過ぎたような気がして目を上げた。
すると、
ゆっくりしたリズムで、
ふわりふうわり、
黒いトンボが車内を品川方面に向かって飛んでいきました。
それがいかにもゆっくり、また、ゆったりと、
踊っているようにすら見え、
目の前を通るたび、
シートに腰かけていた客たちは身をのけぞらせ、
珍客の飛行を目で追いかけていました。
神様とんぼ、極楽とんぼの愛称もあるハグロトンボの移動に合わせ、
身をのけぞらせる人の動きがウェーブをなし、
音のない静かな遊戯をしているようにも見えました。
あのトンボ、
ドアが開いたときに外へ出たものと思われますが、
どこで下車したのか、
品川? 西大井?
そこまでは分かりません。

 

・これぞこの吉野の秋の一顆かな  野衾

 

量と質、ベルクソンのこと

 

例えば、今わたしがこの文章を書いているときに、近くにある時計が鳴ったとしよう。
しかし、
わたしの耳はぼんやりしていて、何回かの鐘の音を聞き逃した後になって、
時計の鳴っていることに気付いたとする。
当然、わたしは鐘の音の回数を数えてはいない。
しかし、それにもかかわらず、
わたしは少し注意を凝らして思い出せば、
鐘の音がすでに四回鳴ったことを知り、その後にわたしが実際に聞いた回数を加えて、
正しい時刻を知ることができる。
自分自身の内面に立ち戻り、
精細に、
今起きたばかりのことを問い直してみれば、
四回の鐘の音がわたしの耳を打っていたこと、
さらにはわたしの意識を揺り動かしていたことに気付く。
しかも、
それぞれの鐘の音が引き起こした感覚は、
一つ一つ横並びに並んでいるのではなく、
互いに混じりあい、
その全体にある一種独特の様相を与えており、
まるで音楽の一節を聞くようであったことにも気付く。
回顧的にすべての回数を知るために、わたしはこの楽節を思考によって再構成しようとする。
わたしの想像力が一つ、二つ、三つ、と鐘を鳴らしてゆく。
しかし、
四つ目の音をわたしの想像力が鳴らし終わらないかぎりは、
わたしの感性は、思考から相談されても、
全体の印象は質的にどこか違う、と答えるだろう。
感性は感性なりに、
鐘の音が四回続いて鳴ったことを確認していたのであるが、
しかしそれは一つ一つ数えあげるというやり方とはまったく違って、
そこに個別の事項を並置したイメージが介在することはない。
要するに、
それら四回の鐘の音は質として知覚されていたのであって、
量として知覚されたのではない、ということだ。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]
『意識に直接与えられているものについての試論』白水社、2010年、pp.123-124)

 

哲学の本はむつかしいけれども、
わたしの場合、もちろん翻訳者のおかげによってではありますが、
こういう文章に出くわすと、
なんとも懐かしく、
ふだん感じてはいるけれども、
なかなか言葉でうまく表せないことを代わりに言ってもらえている気になり、
そうそう、そういうことなんだよな、
と、
身を乗り出すようにして読んでしまいます。
こういう文章がきっかけとなって、
ふだんあまり思い出すことなく過ごしてきたのに、
俄かに思い出される諸々があり、
文章の力、味わいに打たれ、驚かされます。
プルーストが影響されたというのも分かる気がします。

 

・白秋を黒白猫の通りけり  野衾