桜始開

 

きょうから三十日までは、桜始開、
さくらはじめてひらく。
第十一候にあたります。
気象予報によると、
東京、神奈川では、今週後半から週末にかけてが満開となるらしく。
弊社のある西区紅葉ケ丘には
あるいて五分もかからない場所に掃部山公園があります。
かもんやまこうえん。
井伊直弼像を取り囲むようにして
桜の木が植えられており、
この時期になると、
広場にブルーシートが広げられ、
花見客でにぎわいます。
去年でしたか、
ドローンを飛ばして桜の枝に引っかけてしまった若いママさんがいました。
幼い子は指をさしてただ見上げているだけです。
そこにさっそうと現れたひとりの少年。
キャッチボールをしていた場所からそこまでやってきて、
二度三度、
下手投げでボールを放り上げました。
と、
ぐらりドローンがかたむき落ちてきた
ところをママさんキャッチ。
ママさん少年にお礼を言うと、
少年ぺこり頭を下げもとの位置へ小走りで去っていきました。
うーん。
かっこいい!
さてと。
きょうは花ぐもりか。

 

・イレヴンが山道を行く数珠子かな  野衾

 

動物と話せたら

 

ドリトル先生シリーズ三冊目
『ドリトル先生の郵便局』
子どもがわくわくしながら読むようには読めていないかもしれませんが、
おもしろく読みすすめています。
もしも動物のことばが分かって会話できるとすれば、
こんなこともこんなこともできるのかと
おどろくことしきり。
ツバメ郵便なんてすてきだなぁ。
気象予報だって、
人間の科学よりも
産まれてからずっと野外で暮らしている鳥たちのほうが
あたる確率が高そうです。
まえの巻『ドリトル先生航海記』にある話で、
犬が証言台に立ち
にんげんでなくただ一匹の目撃犬として殺人事件の真相を明かす
なんていうのも痛快でした。
検察官の反対を押しきり
犬を証言台に立たせることを認めた裁判官もえらい!
みとめるに至った理由にもなっとく。
もちろん犬語を通訳するのはドリトル先生。
ものがたりはまだたっぷりあります。

 

・山に入り笑つてゐるかと山に問ふ  野衾

 

トークイベント

 

安藤昌益の会事務局の石渡博明さんとの対談が近づいてきました。
今月31日(日)17時~
春風社にて

わたしだけのことでいえば、
どちらかというと声は大きいほうですから、
マイクなしでのぞむことが少なくなかったのですが、
あるとき
あることに気が付きました。
それは、
大きい声で話そうとすると、
そのことにばかり意識が向かい、
あたまがロックしてしまうということ。
前もって話すことが決まっていてひとりで行うような場合は
それでもいいのですが、
相手の方の話を聞きその場で考えながら
というようなときには、
立ち往生してしまいかねません。
その点マイクがあれば、
声がうしろまで届いているか
を気にせずに話せますから、
相手の話に集中し、
そのときその場で浮かんだ感想をつぶやいたりし、
そんなことからでも
話題を展開していくことができそうです。
相手の方にとってもそれはおんなじでしょう。
ということで、
今回は、
マイクと持ち運び可能なスピーカーを
レンタルすることにしました。

 

・我が子から出生訊かるる蛙かな  野衾

 

菜虫化蝶

 

きょうは三月二十日。
きょうまでの五日間が第九候で菜虫化蝶、
なむしちょうとなる。
ですが、
日々の移動のなかで菜の花を見ることはあまりありません。
ここ瀬戸ヶ谷の丘の上からのぞむと、
とおくに黄色いかたまりがちょこっと見えますが、
ひょっとしたら、
あれが菜の花かもしれません。
近くまで行って確かめたわけではありません。
でも、
おそらく菜の花でしょう。
きのうは菜の花の辛し和えをいただきました。
ほろにがくピリリと。
夜は芹。
芹はまた根白草ともよばれます。

 

・噛むごとにふるさと近し根白草  野衾

 

スッと言えない

 

コミュニタリアニズム。
文字で入力するときはスッと書ける(あたりまえか)
のですが、
口で言おうとすると
なかなかうまくいきません。
スッと言えないだけで、
政治思想に明るくない気がし(実際に明るくない)てきます。
むかし、
もちろん翻訳をとおしてですが、
ロシアのものをよく読んでいたころ、
アカーキー・アカーキエヴィチとか、
スタニスラフスキーとか、
スッと言えると、
気持ちがよかった。
友だちと話しているとき、
つかえずに言えると、
それだけで
いっぱしな気分になったものです。
若かったころの思い出。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、
これはこのごろ
スッと言えるようになりました。
言えるだけですが…。
さてコミュニタリアニズム。
どうも危うい。
リベラリズム、リバタリアニズムは
割とつかえずに言えるのですが。

 

・ザクザクと音まで嬉し芹を食ぶ  野衾

 

スクリーチ先生

 

人間が知りうるいっさいは恩寵の賜物であるという見解は、
ラブレーの「年代記」に初期から見られるテーマである。
神学、法学、医学、哲学、予言そして詩歌の分野でラブレーが重視する真理
――要するにすべての真理――は、
人間の努力により獲得したものではなく、霊的な糧(マナ)のごとく、
人間の頭上に滴り落ちてきたのである。
こうした見解は、現代人が想像する以上に、
学問や学識の分野ではずっと強く信じられていた。
ルネサンス期のユマニストたるキリスト教徒は、視野狭窄症に陥ってはいない。
彼らは、エジプトの象形文字から、
あるいはギリシアの哲学から、
さらにはヒポクラテスの霊感を宿した医学的知識から、
何らかの叡智を引き出そうと努めた。
「汝自身を知れ」という偉大な古典期から伝わる教訓も、
彼らは自分たちの天啓的真理の領域に組み入れてきたのだ。(pp.794-795)

 

上の文章は、
マイケル・A・スクリーチ『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』
(平野隆文訳、白水社)からの引用(改行は変えてあります)
です。
カルヴァンによって放蕩者と位置づけられたラブレーですが、
著者であるスクリーチ先生と訳者・平野先生のおかげで、
広やかな地に案内され、
ようやく深呼吸できたような気になり、
忘れられない一冊になりました。

 

・払暁のつとめの庭に初音かな  野衾

 

辛夷咲く

 

このごろの朝のたのしみのひとつは、
保土ヶ谷駅に向かいながら、
丘の下にある辛夷の花の咲き具合を愛でること。
花の数は同じでも、
ひとつひとつの花の開花がすすみ、
木ぜんたいとして
空の雲をまとったようにもみえます。
八十六歳で亡くなった祖母は、
千昌夫の「北国の春」が好きで、
カラオケがまだない時代、
親戚があつまった席で何度か歌ったのをおぼえています。
歌詞のなかに
「辛夷咲くあの丘」とありますが、
わたしはかってに、
あの丘はこの丘だと思いながら、
鼻歌に興じます。

 

・かがまりて歌ふ祖母の背春兆す  野衾