精霊蝗虫

 

・焼酎の色を光らす酢橘かな

ショウリョウバッタを漢字で書くとこうなるそうです。
ショウリョウバッタのあの顔つきというものは、
気難しい漢文の先生
みたいでもありますから、
体を表す名としては
むしろ相応しいかもしれません。
ところでその精霊蝗虫を
あやうく箸でつまんで食べるところでした。
土曜日だったと思います。
家人といっしょにテーブルに向かい
少し早めの昼食となりました。
早朝からほぼ休みなく
小さい字を読んでいましたので、
頭が少々ボーッとし、
目もショボついていました。
目の前の小鉢に緑の野菜が入っていて、
箸で摘まもうとした瞬間、
細い緑がピョンと跳んでご飯の上に。
そのままジッとしている。
野菜がみずから跳ぶわけはない。
箸でなく、
そろ~り指でつまんで顔を見たら、
気難しそうな
漢文の先生の顔でありました。
つぶさぬように注意し
ベランダの外の緑に放ってやりました。
ほんと
食べなくてよかったよ。
*
高橋和夫先生が図書新聞に
『おうすいポケット 新井奥邃語録抄』
の書評を書いてくださいました。
コチラです。
(図書新聞の本紙ではちゃんと読めるのに、
スキャンしたデータではなぜか本文が重なり読みにくい箇所がございます。
ごめんなさい。
四段目右から3~4行目「さらには「霊性の思想家」と呼びたい」
五段目右から2~4行目「我が中に在る光明相発して上と共に貫織すれば也」)

・岡田さん今年もたんと青酢橘  野衾

田植え

 

・蝉しぐれ大音量のいのちなり

営業の責任者でもある専務イシバシが、
都内にある某マンモス大学へ赴き、
春風新聞を配ってきました。
勤務する先生の数が多く、
一日で配れず、
暑いなか二日にわたって配ってきたと、
夕刻、
汗を拭き拭き帰ってきました。
いまはまだ夏休み、
大学へ行っても実際に会える機会は少なく、
その場合は、
腰を曲げ、
研究室のドアの下に
春風新聞を差し込みます。
差し込み終えたら、
腰を伸ばして次の部屋へ。
この繰り返し。
二日間で約五百回の腰の曲げ伸ばし。
専務イシバシ、
子どもの頃から仕事の虫、
家の仕事もよく手伝い、
田植えもしたから
体がそのことを忘れていない。
五百回の腰の曲げ伸ばしをしているうちに、
ああこれは、
田植えの動作に似ている
と悟ったのだとか。
なるほど。
動作だけでなく、
その一通の春風新聞が、
仕事のきっかけをつくるのだから、
意味からいっても田植えに似ています。

・虫の声何の虫ぞや答え無し  野衾

アート・ペッパー

 

・秋風や重き雲行く帰宅前

帰宅後、
夕飯のときに
その日の気分でCDをえらび、
プレーヤーのターンテーブルにのせます。
このごろは、
テレサ・テン、三橋美智也、三波春夫、ダイアー・ストレイツ、
ちあきなおみ、ブライアン・イーノ、
細野晴臣、こまどり姉妹
あたりが
ヘビーローテーションでしょうか。
さてきのうは、
ART PEPPER Live at the Village Vanguard
四枚組のなかの
四枚目を聴きました。
火のでるような四曲目のキャラバンから
最終曲のラビリンスへの流れが最高に好きなのです。
とくにこのラビリンス、
学生のころ、
あのころはレコードで
このアルバムを持っていましたが、
評論家の言説とは別に、
自分の耳で聴いて、
いいなあと思ったいくつかのジャズの曲
のうちのひとつでした。
きれいなメロディーの
ゆったりした落ち着く曲ですが、
アート・ペッパーの狂に裏打ちされていると思います。
*
橋本照嵩『石巻かほく』紙上写真展
の二十七回目が掲載されました。
コチラです。

・秋の風昔の夢を晴らしてよ  野衾

推敲

 

・隣の娘(こ)吾を追い抜く涼新た

文章は推敲できるから、いい。
何度でもできますもんね。
ところが人生となると、
なかなかそんなふうにまいりません。
言い訳や弁解や
後悔はできても、
やり直しが利かないのが人生。
だって人間だもの、
なんて。
いきなりですが。
『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に、
往年の大女優で、
戦前ソヴィエト連邦に亡命したことでも知られる
岡田嘉子がでていますが、
絵描きの大家を演じる宇野重吉に、
「私、近頃よくこう思うの。
人生に後悔はつきものなんじゃないかしらって。
ああすればよかったなあという後悔と、
もうひとつは、
どうしてあんなことしてしまったのだろうという後悔」
意味深長な言葉で語りかける
シーンがあります。
おそらく
監督の山田洋次が、
岡田さんの実人生をふまえ、
そのセリフを考えたんでしょう。
ほんと、
まったく人生は、
二つの後悔のあざなえる縄のごとく、
どこまで上っても、
また下っても、
ああすればよかった
という後悔と
どうしてあんなことしてしまったのだろう
という後悔が
より合わさっていて、
生きている間、
悟りでも得ないかぎりは、
ひょっとしたらそんなものを得たとしても、
キリなくつづくのかもしれません。
その点、
文章はいいです。
飽きが来ないかぎり、
テーマを捨てないかぎり、
またテーマに捨てられないかぎり、
何度でも推敲できますから。

・下版の日鎌のようなる月懸かる  野衾

人生不可解

 

・夕暮れの首を火照らす残暑かな

ここ数年、
詩に興味を持ち
読んだり書いたりしていたら、
なぜか詩集や
詩の評論の仕事をいただくことが多くなりました。
ただいまは、
T・S・エリオットの詩
に関する評論集を編集しています。
エリオットの詩は、
翻訳ですが
少なからず読んできましたから、
仕事ではありますが、
個人的な興味と感心からもたいへん勉強になり
ありがたく思います。
また、
文章の歯切れよく、
もたつくところがありません。
繊細さとシャープな力のバランスが保たれ、
読んでいて実に気持ちがいいのです。
さて、
興味や関心を持つ領域の仕事をいただくたび、
あれ人生不可解
の疑問符が浮かんでくるわけですが、
このとき思い出すのが、
新井奥邃(おうすい)のあの言葉。
「世に神秘を嗤ふ者あり。学者に多し。思はざるの甚だし。
凡そ清浄なる者は是れ神秘に由らざるはなし。」
清浄なる者は、
「者」と書いて「こと」の意でしょう。
人生は不可解ですから、
なおさら面白く、
滝から身を投げるには及びません。

・ふるさとも町も時得て虫すだく  野衾

朝ごはん

 

・朝霧や靡きふるさと雲の上

いまの時代は一般的に、
朝ごはんを食べるのが健康によいとされていますが、
朝ごはんを食べないことで
胃腸を休めるという健康法もありまして。
それに関する本を数冊読み、
うなずけるところ多々あったものの、
(我田引水的な記述も無しとせず)
その説が正しい
と全面的に信じているわけでもなくて、
ただなんとなく
朝ごはんを食べずに、
一杯のコーヒーだけのほうが
体調がいい、
いいらしく感じるので、
ふだんは朝ごはんを食べません。
が、
ふるさと秋田へ帰ったとなると、
これは百パーセント
朝ごはんを食べます。
アマノで買った薄塩の鮭の切り身を炙ったの、
小屋で飼っている鶏が産んだ新鮮な卵の目玉焼き、
茹でたオクラ、
細く切ったとろろ芋、
母のつくった味噌汁、
炊き立てのご飯、
それにガッコ、
とくれば、
もう食べずにいられません。
したがいまして、
ふるさと三食都市二食が
いまのところのわたしの健康法です。
ていうか食習慣。
それと、
旅にでて
旅館に泊まった翌朝も、
例外的に朝ごはんを食べます。
食べてしまいます。
*
橋本照嵩『石巻かほく』紙上写真展
の二十六回目が掲載されました。
コチラです。

・何告げに老父の前に鹿来る  野衾

栗の木の下

 

・ふるさとの立ちて朝霧靡きけり

十三日の墓参り当日、
集まった親戚ともども午後三時出発。
天気予報は雨を告げていましたが、
そんなに時間をかけるわけでもなし、
まあ持つだろうと
高をくくって出かけたところ、
墓前に線香をあげ静かに煙が燻り始めた頃、
一転にわかに掻き曇り、
ばらばらばらと降ってきました。
墓地のこととて逃げるに逃げられず。
すぐ横の、
割と大きな二本の栗の木の下にもぐりこみ、
しばらく待機。
そうしていると、
いつの間にやら父も母も、
叔父も叔母も弟も、
だんだんだんだん小さくなっていくようで。
さしずめメルモ、
いやメル子、メル太郎。
となれば、
♪大きな栗の木の下で…。
と、
それでも枝葉の間を縫って雨粒は落ちてきます。
やがて小降りになり。
いつまで待っても仕方ありませんから、
メル子メル太郎をはや返上、
しわの数を増やして
木を離れ。
順にお参りを済ませての帰り道、
大きな杉の木の下は、
まったく雨に濡れておらず、
一同瞠目。
雨に降られたときは、
栗の木よりも
杉の木だと、
メル子メル太郎に逆戻り。

・稲妻や臥所の朝を照らしをり  野衾