中井久夫さん 7

 

帰省はいつも新幹線を利用しているのですが、前席シートの後ろのネットのなかに
JR東日本が発行している冊子が入っていて、
それを読むのをたのしみにしています。
[旅のまにまに]の連載エッセイは柚月裕子さん。こんかいは「思いつきの勧め」
という題で書いていました。
その文章のなかに、十年ほど前のことらしいのですが、
心身ともに不調だったことに触れ、心と体は、片方が不調だと、
もう片方も衰弱する。何もしたくない、何も食べたくない、やる気もない、
三ない尽くしの時期があったと。

 

診断を話しても、それが治療に生きなければしょうがない。
難しい漢字の病名を背負いこんだり、恐ろしいと思って帰るだけでは全くしょうがない。
せめて「ノイローゼから一歩出ていると思う」とか、
「統合失調症みたいな所も確かにあるが健康な所もある」
といった様に話すことにしている。
これが一つもウソでないことは精神科医の方々には分ってもらえるはずだ。
相手をみて「″気になり病″という感じですね」「″気が済まない病″ですね」
「ふさぎの虫がちょっと腰をおろしましたね」
「二本の綱の綱わたりという感じですね。これから何病が出てくるか、
ここから立て直すか、一生のうちでも重要な時ですよ。めったにない時だから
協力して下さい」というふうに話すと
病名を言う際の副作用が非常に救われることもある。
診断ということは″レッテルを貼る″ということだとされ、
マイナスの方を強調されがちだが決してそうではなく、
ただ、〇〇病であってそれ以外でなく、
かくかくの程度であってそれ以上ではなく見通しはこうだという限界づけ
が重要である。
いつもではないにしても内科などでは医者がかけつけて診断をすると
それで随分精神的に救われる場合も多い。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.272-273)

 

中井久夫さんに診てもらったひとは、ホッと息を吐き、
肩の力が抜けたんじゃないでしょうか。
″気になり病″″気が済まない病″、
また、ふさぎの虫はわたしのなかにも棲んでいますから、
中井先生の精密でやわらかな診断に
診てもらう人は希望をもてたんじゃないかと想像します。

 

・夏帽子取つて二つの薬缶尻  野衾

 

中井久夫さん 6

 

中井久夫さんは精神科医ですから、
ご専門の本はとうぜん多く読んでいるわけでしょうけれど、ギリシャ詩の翻訳や
ポール・ヴァレリーさんの詩の翻訳まで手掛けるくらいですから、
どんだけ読書の範囲がひろいの、と驚いてしまいます。
こんかい引用している本に、二宮尊徳さんのことがでてきてびっくり。

 

二宮尊徳というような話をすると古いかもしれませんけれども
あの人はなかなかいいことをいろいろ書いているんですが、
あの人が村を立て直すというときに本当に村が立て直ったというのは、
二宮という人が村の立て直しにタッチしたというようなことは忘れてしまって
自分たちの力で村を立て直したんだというふうに思うようになった時に
初めて再建できたんだということを書いている
のを読みまして、
まさに精神科医あるいは一般に医者というものとおなじだなと、
そして二宮という人は、
村を立て直すという意味では非常にいい″医者″だったんではないか
と思ったことでございます。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.236)

 

引用した文章は、医師たちの集まりにおいて中井さんが話したものを
録音テープから起こし「比較的忠実に文字にした」と
「文庫版への付記」に書かれています。
それがまたなんとも中井さんらしくて、おかしい。
いわく、
「医師集団というものの威厳というか威圧力を同じ医師の私でも
これほど感じてしまうわけですかね。
保険医協会というのは、まあ、王様みたいな医師のいない集まりですけれども」
(同書、p.268)と。

 

・半世紀変らずの空帰省かな  野衾

 

ふるさとの力

 

今月12日から16日まで秋田に帰省していました。
ことし1月に他界した母の新盆にあたり、墓参りをしたときのこと、
そこで何十年ぶりかの、ほんとうに久しぶりの幼なじみに出会いました。
むこうもびっくり、わたしもびっくり。
ほんの数秒見つめ合ったあと、ふたりともかぶっていた帽子を脱ぎ、
髪の毛の薄くなったあたまを見せ合い、大笑い。
ときのながれの速さを身にしみて感じました。
このごろ帰省するたびに好んでするのは、
散歩。
家を出て、バス通りを左に折れ、井内町内へ下り、
Sさんの家を正面に見ながら、鋭角的に左へ曲がり、大麦へ向かいます。
サギが数羽、ゆったり田んぼの上を飛んでいきます。
町の由来になった井川のせせらぎは、前の晩の大雨の勢いをたたえて、
いつもより高鳴っているよう。
稲穂はずいぶんこうべを垂れはじめました。
田んぼの上を赤とんぼが舞っています。秋はまだかいな。
大麦町内を抜け、寺沢方面へ。
建物が変ったり、くねった道が放置されまっすぐの道に変っても、
上下左右360度、見まわし、見わたしてみれば、
変化したのは1パーセントにも満たない気がします。
横浜だって緑が少ないわけではないけれど、
ふるさとの緑というのは、ビジュアルだけでなく、
川のせせらぎや空気のにおいなどとあいまって、どくとくのものがあり、
五感にくるなぁとおもうことしきり。
一歩一歩の先にゆっくり展開するパノラマに
さまざまな思い出が幾層にもなって迫ってきます。

弊社は、本日より通常営業です。よろしくお願い申し上げます。

 

・父がいて弟がいて帰省かな  野衾

 

中井久夫さん 5

 

精神医療と、精神科の患者さんとの対話から得られた知見を
わかりやすく説いてくれる中井さんの本は、
ふだんの人づきあいに応用できることが多くあり、
また、ふり返って、ふかく反省させられることが少なくありません。

 

サリヴァンによれば半年たったのちの患者の応答がこれまたふしぎで、
半年前の治療者のことばをそっくりそのまま自分の意見としていうのである。
「これでよいのだ」とサリヴァンは言う。
「それは俺が半年前君に言ったことだぜ」といえばぶちこわしなのだ。
私は治療者の意見を患者が自分の意見として言うという事態は、
じゅうぶん患者のなかに沈んで消化されてでてきたものだから実にいいではないか
と思う。
しかし、半年間、不毛な面接をつづけた後であるから、
患者にしたり顔でいわれたりすると治療者もひとこと言ってやりたくなる。
それはわかるのだが、
やっぱり「ひとこと多い」のだ。
神田橋條治氏によれば精神療法で一番大切というか自分が好きな言葉は「ホウ」
だそうであるが(個人的談話のなかから)、
「ホウ」とか「ふうん」とかいう、
「相槌」というか「話の継ぎ穂」というか、
そういう応答のほうがよいと思う。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.198)

 

ひとと話していて、相手の言うことに、あれ? と思うことがあります。
それって、わたしが以前あなたに話したことじゃん、て思う。
そのとき、それを相手に告げるか、告げないか。
「ホウ」とか「へー」とか「ふうん」と聴いていることは、なかなかむつかしい。
でも、それを告げないのが、面接でないふつうの会話においてもだいじかな、
と思います。

弊社は、8月9日から8月17日まで夏季休暇となります。
8月18日より通常営業。よろしくお願いいたします。

 

・廃校の金次郎像帰省かな  野衾

 

中井久夫さん 4

 

中井さんは精神科医で、あたまがよく、鋭利な刃物のような分析も感じられますけど、
はんたいに、ぽっかり浮かぶ白い雲、とか、わたあめみたいな感触もあって、
読みながら、ゆるされている気になります。

 

実は「治療者」と名乗ると治療をしていないとあいすまないみたいな気になって、
今日も前進しなかったと気落ちして一日が終わることになりがちだ。
しかし、
人間というものはそう前進するものではない。
「健康人」はめったに進歩しない。
だいたい同じようなことをやって日を送り月を送っているのである。
時に日一日進歩するのは赤ん坊と思春期の子と回復期の患者の一部とだけであろう。
治療者の仕事とは、
「患者の人生をできるだけ無理のないゆたかでふっくらしたような軌跡
を描いて全うできるように援助する」
というくらいのところではあるまいか。
「いやだ」という患者に「いやこうでなくては」と押しつけることはできないが、
さりとて目標は何でも患者の注文どおり
というわけにもいかない。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.157-158)

 

「無理のないゆたかでふっくらしたような軌跡を描いて全うできる」
ということばがでてくる中井さんのこころは、
ありがたく、あったかいなぁと思います。

 

・坂下る五十メートル先の虹  野衾

 

中井久夫さん 3

 

きょう引用するところは、嫉妬にかんする文章です。夫婦間の嫉妬というのも、
精神科医がうけもつ案件になるようです。ところで、
中井さんの文章を読んでいると、
きのうの「宇宙線のごとく気づかれずに日々降り注ぐハプニング」
もそうですが、意表を突かれる表現がひょいと現れ、
文の風景ががらりと変って見えることが間々あります。

 

嫉妬妄想の人を診ると、身づくろいをせず、歯の治療を怠っている人が多い。
これは印象的なほどである。
ある初老の女性は、髪はざんばら、歯は欠け、悪臭を放つ状態で、
配偶者に性交渉を迫る。配偶者は三舎を避けたいところだが、
嫉妬妄想者の配偶者はふしぎに気の弱い人が多く、相手にしようとするのだが、
やはり気のない肌の合わせ方となる。
これがまた、配偶者が浮気をしている証拠となる。
これは全くの負荷試験である。
何のテストか?
無内容な「愛」の存在を身を以て示せというテストである。
なるほど「愛」があれば、どのような悪臭、身づくろいのなさも問題ではない
ということは、ほんとうかもしれないが、
それは戦時下や難民のような状況の下でのことである。
そうでない場合は、土足をなめて愛を示せというに等しい。
これは、
実はほとんどむき出しの権力意志なのだ。
夫婦の間の長い歴史にこれまでどういうことがあったかということ、
それとは別の問題である。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.146-147)

 

「身づくろい」「歯の治療」「ざんばら髪」「欠けた歯」「悪臭」、
嫉妬妄想と一見関係なさそうにみえて、
なんともいえないリアリティが感じられます。
「むき出しの権力意志」ということばにハッとします。

 

・夏休み口にするだに笑みしきり  野衾

 

中井久夫さん 2

 

このごろ読んだ中井久夫さんの本から、とくに印象にのこったところを引用しつつ、
思ったり、考えたりしたことをすこし書いてみたくなりました。
それは、中井さんの書くものは、閉じられておらず、
そとの風を浴びることを良しとしているようなところがあるからだと思います。

 

ついでながら、私の経験では、患者がもっとも良質の生産活動の場を発見するのは、
その人の消費生活世界のフロンティアにおいてであった。
そこでの情報交換が有益であった場合も、
端的にそこへ就職してしまった場合もある。
実際、このような前哨点ほどハプニング(思いがけない出来事)に開かれている場合
は他にない。
逆に、
管理中心の病院などがもっとも欠如しているのは、
世に棲む人には宇宙線のごとく気づかれずに日々降り注ぐハプニングである。
患者の家庭も、なぜかハプニングの少ない場であるという印象を持つ。
患者がハプニングに開かれた眼を持ち、
それを活用する姿勢に出ることは、長期的に重要である。
それは治療の場の対話において留意さるべき点の一つである。
治療開始一〇年以後の患者の予後は、
ハプニングあるいは「運」によるところが大であるというのが私の結論である。
いや、人生経路は誰でもそうであろう。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.62)

 

上に引用したこの箇所も、中井さんの面目躍如という感じがします。
「宇宙線のごとく気づかれずに日々降り注ぐハプニング」か。
またここには、10年という時間が記されていますが、
きのう引用したところでも「十数年前」「十年くらい」が記述されていました。
治療というときに、
この時間の長さについても考えさせられます。

 

・目を上ぐや故郷の虹を見て以来  野衾