カニの恩返し

 

『和漢三才図会』は、江戸時代の百科事典のようなもので、
著者は寺島良安さん。秋田出身と書かれたものもありますけど、
そこのところはよく分かっていないようです。
ともかく。
平凡社の「東洋文庫」に入っており、全部で十八巻。
ちょびちょび読んでいまして、
健康ならば、
再来年ぐらいには読み終えられるかな?
百科事典様のものですから、
小説みたいに目頭を熱くするようなことはありませんけれど、
くすっと笑ってしまうことは間々あります。
それと、
『今昔物語』風な話もあり、へ~、
そんなことが書かれている本があるの、と、おもしろく感じます。
きょうは、そんななかから、
このごろ読んだ「カニの恩返し」
とでもいえるようなものを紹介します。

 

蟹満かにま(かにまん)寺 相良郡綺田かばた村(相良郡山城町綺田浜)
にある。
本尊 釈迦如来〔長たけ八尺八寸〕
言い伝えによれば、
昔、綺田に一人の女がおり、一家挙こぞって仏を信じていた。
ある時女が家を出ると、
多くの里人が池の蟹かにを捕るのを見かけた。
女が何のために捕るのか、と問うと、煮て食うためだ、と答える。
女は、私の家に美味うまい脯魚ひものがある、
出来ればこれと換えてくれないだろうか、
と言った。
里人は喜んで交換した。
そこで女は蟹を大池に放した。
また父の翁が野に出ると、蛇が蟇がまを吞むのを見た。
そこで、放してやれ、そうすれば一女をお前にやろう、と言った。
蛇は蟇を吐いて去った。
その夜若い男が来て門を敲たたき、今日の約束によって来た、と言った。
翁は驚き怖れて、未だ娘に告げていないので三日待ってくれ、
と言った。
蛇は去って行った。
女は事情を聞くと、怖れることはない、と言って一室に籠こもり、
仏前に向かって読経した。
約束の時になり大蛇が来て、尾で戸を撃ち破って入った。
父母は哭泣こくきゅう顚倒てんとうするのみであった。
里人が集まってきて戸を開けて見ると、
女は安らかで居た。
数万の蟹がいて蛇の万身を螯はさみ、そのため蛇は斃たおれた。
人皆奇異のこととして、のちに寺に建て蟹満寺と号した
〔近頃修覆した時、本尊の床下に蟹の殻と蛇の鱗があった〕。(『元亨釈書』による)
△思うに、『元亨釈書』
げんこうしゃくしょに久世くせ郡とし、
また本尊を観音とするのは非である。
恐らく虎関師こかんし(錬)の聞き誤りであろう。
(寺島良安[著]島田勇雄・竹島淳夫・樋口元巳[訳注]
『和漢三才図会 12』平凡社東洋文庫498、1989年、pp.43-44)

 

『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)は、
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧・虎関師錬《こかんしれん》さん
編著による日本最初の編年的高僧伝
だそうで、
良安さんは、それに基づいて書いたようです。
『元亨釈書』なるものを、
わたしは読んだことがないし、
これからも読むことはないでしょうから、
そういう本の存在を知るのにも『和漢三才図会』は役に立ちます。

 

・暑く忙し、されど佳き日の終り  野衾

 

葉っぱかと見れば

 

電車内で文庫本を読むときは、遠近両用メガネでかろうじて読めますが、
それ以外は、
家でも会社でも、メガネをはずし裸眼で文字を追いかけます。
スピードは落ちますが、
その方がストレスが少ない気がして。
が、
ただ一つ裸眼で困るのは、
すぐ目の前の文字は見えるけど、
ちょっと離れたところだと、ぼやぼやにぼやけてしまうこと。
山の上に住んでいるので、
ベランダにいろいろ生き物が来ます。
ところが、
メガネをはずしていることが多いので、訪問者がだれなのか、すぐには分かりません。
ハクビシンには驚いた、
ちょっと前の話になりますけど。
いちばん多いのは、
生き物でなく木の葉ですね。
山の上の、
しかも崖に建つマンションなので、
木々の葉が風に吹かれてベランダによく飛んできます。
おとといの朝だったでしょうか。
本を読んでいたら、
黒いものがよぎった気がし、
あわてて頭の上に乗っけているメガネをずらし、急ぎかけ直した。
やって来たのは葉っぱか
と思ったのですが、
動きがちょっと違う気もした。
ちいさい雀でした。
きょろきょろ、きときと、なんとも忙しそう。
すぐ目の前なのに、
わたしの存在など、眼中にない様子。
と、
すぐに飛び立った。
またメガネを頭のほうへずらし、
爪でしるしを付けたところから読みつづけます。

 

・きときとと雀せはしや夏を連れ  野衾

 

コーヒーの音

 

朝、このブログを書いて、ルーティンのツボ踏みをやったら、つぎはコーヒー。
ほかの方式でも淹れたことはありますが、
理科の実験みたいで楽しくもあり、
いまはもっぱらサイフォンで淹れています。
ツボ踏みを終えてもまだ外は暗く、遠くにクルマの走る音が聞こえたり、
朝早い烏が鳴いたりしますが、
総じていたって静か。
奥邃先生は静黙を尊びましたが、真似したいと思います。
このごろ気づいたことがありまして。
挽いた豆をロートのお湯の中に投入してから、
竹べらで二度かき回し、
二分三十秒でアルコールランプの火を止め、
ロートからフラスコにコーヒーが落ち切るのを待って出来上がり
となるわけですが、
カップに移した出来立てのコーヒーを口にする前に、
サイフォンを洗います。
サイフォンを持って台所に向かうとき、文字で書くと、サワサワサワ、
みたいな音が聴こえて立ち止まりました。
ロートに耳を近づけます。
サワサワサワサワ。
淹れたあとの砕けたコーヒー豆から、その音が出ています。
しばらく耳を傾けます。
は~。
香りと味、だけでなく、コーヒーには音もあるのか。
え~と、
いまは、ブラジルの農園で栽培した豆とケニアの農園で栽培した豆
をつかっているので、
行ったことのない国の風土を想像してみます。
しばらくコーヒーの音を堪能し、
サイフォンを洗ってから部屋に戻り、
やっとカップを手にし、
じぶんで淹れたコーヒーを口にする。
あっちっち。
猫舌か?
ブレンドされたコーヒーを味わい、
さらに想像の色は濃くなっていくようです。

 

・朝ぐもり小さきアウラを聴く日かな  野衾

 

屋根の上の葦

 

きょうもこれを書くまえに見てみたら、ちゃんと見えます。
わたしのいるところから外を眺めると、
ここは小高い丘というか、山の上にありますので、
いろいろ見えるわけですけど、
ここを峰だとすると、
伊良湖岬のようにゆっくりカーブした峰の先のほうに一軒の家があり、
その屋根の上に、ちょっとまえ、
あるものを発見しました。
すこし距離があるので、
それが何なのか、分かりかねた。
しばらくじっと眺めていると、動くようにも見えます。
屋根から少し浮いている
ようにも見えるし、
糸でつながれた小さな風船のようにも見える。
妖精?
なんだろう? 気になる。
気になるので、窓のカーテンを開ける度に目をやる。
そうしたら、
だんだん大きくなっていく
みたい。
遠目なので、はっきりとは分かりませんが、
どうやら植物のようです、屋根の上に生え出て成長した。
そこで、な~んだ、
となってよさそうですが、
そうでもなく、風が吹くとかすかに揺れ、見ていてなんとなく楽しい。
しばらくじっと見ていられる。
屋根の上の葦、そんな感じ。
飽きない。
子どもの頃、外をじっと眺めていると、
よく祖母から叱られた。

 

・緑かと否むらさきの五月かな  野衾

 

もう一人

 

おとといのブログに、
「イタリアでは、もう一人、気になる人がいるんだよなぁ」
と書きました。
それはアリオストさん。
おととしから去年にかけて窪田般彌(くぼた はんや)さん訳による
『カザノヴァ回想録』を読みましたが、
そのなかになんども、
アリオストさんの『狂えるオルランド』がでてきました。
記憶では、
短く引用している箇所もあったはず。
稀代のモテ男カサノヴァさんの愛読書だったのでしょう。

『カザノヴァ回想録』では、
笑わせてもらったり、
しみじみと人生を考える機会を与えてもらったりし、
カサノヴァさんに興味を持ちましたので、
そのうち『狂えるオルランド』も読もうと思ってはいました。
ところが、
「そのうち」が割と早くやって来た。
ボッカッチョさんの『デカメロン』を読んでいたら、
話のなかに騎士が幾度か登場し、
へ~、
なんて思ったことが第二のきっかけ。
調べたら、
『狂えるオルランド』はルネサンス期イタリアの叙事詩で、
騎士道文学の傑作と紹介されています。
あのカルヴィーノさんも愛読していたのだとか。
これは読むしかないでしょう!
てなことで、
きのうから読み始めた。
上巻巻頭には、
ルーブル美術館所蔵、
アングルさんの恰好いい「アンジェリカを救うルッジェーロ」(部分)
がカラーで掲載されていたりもして、
いたくイメージを喚起されます。
わたしが手にしているのは、
名古屋大学出版会からでている脇功(わき いさお)さん訳によるものです。

 

・エルサルバドル珈琲の旅五月  野衾

 

「正しさ」にしがみつかない

 

十年ほどまえ、いや、十年は経たないか。数年まえ。
カルヴァンさんの『キリスト教綱要』を読みました。ぶ厚い立派な本で、
三巻ありました。
アタマでも読みましたが、カラダでも読んだ。
カラダでも、というのは、訳がありまして、
読んでいるうちに、なんだか、胸苦しくなり具合が悪くなった。
なので、
読んだ本、読んでいる本について、
ほかの本と同様に、
なんらかこのブログに書いてもよさそうなのに、
『キリスト教綱要』については、触れなかった気がします。
触れたかもしれないけど、
忘れた。
忘れていいと思っています。
わたしには合わなかったのでしょう。
『キリスト教綱要』は、組織神学の書物として、たしかに優れているかもしれないけど、
体調がおかしくなったことは事実。
いまの時点で振り返って、
あのときのじぶん、
じぶんのこころと体が感じたことをことばにすれば、
あの本は、
「正しさ」にこだわり過ぎている
ように思います。
「正しさ」を前にすると、
こわい先生の面前で、
緊張し起立しているじぶんを想像してしまう。
勉強したり、学んだり、修行するのは、
「正しさ」を求めてのことが大きいと思いますけど、
それを求めているうちに、
「正しさ」よりも、「正しさ」を求めるじぶんが可愛くなる。
だもんだから、
「正しさ」に執着し、しがみつく。
これがいちばん危ないよ。
そんな気がします。
「正しさ」を求めるのはいいとして、
「正しさ」を超えた正しさがあるかもしれないのに。
じぶんが正しいと思っても、
確信はしない。
盲信はしない。どこかで諦める。
それは、たとえば、
綿密な授業案をつくって授業に臨み、しかし、授業本番では、授業案を捨ててかかる、
ことに似ているかもしれない。
ワークショップに臨んだピーター・ブルックさんが、
予定してきたアイディアを捨ててかかって、はじめて目の前の参加者の顔が見えた、
ことに似ているかもしれない。
またマルティン・ブーバー少年が、
馬と一心同体だったのに、
あるとき馬の毛並みというのは、なんて気持ちいいんだろうと、
じぶんの気持ちを意識し始め、それからというもの、
馬にそっぽを向かれた、
ことと関連しているかもしれない。
すべて、
「正しさ」にしがみつくことの落とし穴を指し示し、
「正しさ」にしがみつかない極意と響いている気がします。
道端のたんぽぽさんに、
こんにちは。

 

・遠回りしてやうやくの五月かな  野衾

 

寄り道

 

ディケンズさん、オースティンさん、チョーサーさんと、イギリスの小説を読み、
さて、つぎはドイツに行こうかな、
と思っていたのですが、
チョーサーさんの『カンタベリー物語』を読んだら、
チョーサーさんは、
ボッカッチョさんの『デカメロン』を下敷きにして『カンタベリー物語』を書いた
ということなので、
あとへ延ばさずこのタイミングで読むのがいいか
と考え直し、
平川祐弘さん訳による『デカメロン』を。
『カンタベリー物語』が「物語」といっている割に、
さいごは、
チョーサーさんの信仰告白かよ、
と思えないこともない書きっぷりで、
ああ、やっぱりそうなるかぁ、と感じました。
一方『デカメロン』。
第十日第九話でサラディンさんは出てくるわ、魔法使いは出てくるわ、
サラディンさんがかつて世話になったキリスト教の騎士を、
魔法使いにたのみ、空を飛ばせて故郷に帰す、
なんていうのは、
なんだか『千夜一夜物語』だよ。
へ~、なんていうか、
のびのびしてる。
ボッカッチョさんの父親が商人だったことも関係してるかな。
ともかく。
ダンテさんをリスペクトしているのはよく分かるけど、
ダンテさんとずいぶんと違う。
イタリアでは、もう一人、
気になる人がいるんだよなぁ。

 

・寄り道の味を知りたる五月かな  野衾