五〇二年四月、蕭衍《しょうえん》(武帝)は、斉の和帝を廃して自ら帝位に即き、
国号を梁と称し、元号を天監と改めた。
劉勰が官途についたのは、この後のことで、
天監のはじめ奉朝請という臨時官を振り出しに、
武帝の異母弟で臨川郡の王であった蕭宏の記室(秘書官)を兼任した。
ついで、
車騎倉曹参軍に遷り、太末県の長官に転出し、
天監十年(五一一)ごろには、
武帝の第四子で南康軍の王であった蕭績の記室に任命され、
東宮通事舎人(東宮秘書官)を兼任した。
時の東宮は、
武帝の長子の蕭統で、
『文選《もんぜん》』の編者として昭明太子の諡《おくりな》で知られた人物である。
『梁書』に
「昭明太子文学を好み、深くこれ(劉勰)を愛接す」
とあるのを見ると、
それは通常の秘書官というだけのものではなく、
恐らくすでに『文心雕龍』という大著作があることによってその文学上の識見を買われ、
太子の有力な文学顧問であったのだろうと思われる。
『文心雕龍』と『文選』とを比較してみると、
文学様式の分類に共通点が少なくないばかりでなく、
文学の本質についての考え方にも極めて似たところがあり、
『文選』の編纂に与えた『文心雕龍』の影響の大きいことを否定できない。
即ち、
『文選』は『文心雕龍』の文学論を詩文集の形式で再構成したものである、
と言っても言い過ぎではない。
(戸田浩暁『新釈漢文大系64 文心雕龍 上』明治書院、1974年、p.3)
きのうこのブログで、『文選』と『文心雕龍』が、
いわば車の両輪のような関係であると知ったことに触れましたが、
こういう影響、かげひびきが、音を立ててではなく、
しずかなエコーとなり、ゆっくり、たっぷりと時間をかけ、
さざなみが、
はるか遠くまで及び、
やがて消えて無くなるがごとくに伝えられていくところに、
ふかい感動を覚えます。
たとえばそれが杜甫の詩作へとひびき合い、
海を越え『萬葉集』ともひびき合うことに思いを致し、
そこに共通する人間の営為、感興を、読書を通じて識り味わえることは、
文学の大きな喜びの一つであります。
・ホームにて体操余念なしの春 野衾