カザノヴァが自伝を書く意図を持ったのは一七八〇年頃のことであり、
その執筆は少なくとも一七九〇年にはじまっていたと推定されている。
そして、
一七九二年には『回想録』の最初の草稿が書き終えられたが、
一七九三年のオーピッツ宛ての手紙は、
なぜ『回想録』がトリエステ帰還のところで終わっているかという理由を説明するものであろう。
……回想録のことについて言えば、わたしはこのままにしておこうと思います。
なにしろ五十歳以後のことは、もはや悲しいことしか話せませんからね。
それはわたしを悲しませるばかりです。
わたしが回想録を書くのは、
ただ読者を楽しませるためでしかありません。
すでにカザノヴァは『プロン脱獄記』を発表した一七八七年に、
自伝を書くとすれば一七五六年から七四年までのことを扱いたいと語っているが、
この天性陽気なヴェネチア人の執筆態度には
〈幸イニ話ガ面白ケレバ、聞キ手ノホウデソウ言ッテクレル〉
というマルティアリスの金言があったことを忘れてはならない。
こうした人間に、
五十歳以後の寂しい人生を語ることなどはできない。
かれは、
悲しみと寂しさに〈気違いとならない〉ために、
いま一度明るく楽しい青春の思い出に遊ぶことになる。
……わたしは退屈しないために書いているのだ。
わたしは楽しんでいる。そして、書くことに満足し、喜びを感じている。
たとえ理屈に合わないことを書いても、わたしは少しも気にしない。
自分が楽しんでいることを確信できれば、
それだけで十分なのだ。
詩人の倦怠や寂寥に不必要な同情を寄せてはいけない。
アナトール・フランスの言い草ではないが、
歌う者は絶望をも美しくする術を心得る。
世間的な意味での文学者になりそこねた文人カザノヴァも例外ではなかった。
かれは痛風のためにきかなくなった指を酷使しながら、
日に十三時間も書きつづけた。
文学はすべて、
生存の空しさから生まれるといったら言いすぎだろうか。
十二巻の『回想録』は、何よりもこのことを証明しているではないか。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 6』河出書房新社、
1969年、pp.464-5)
『カザノヴァ回想録』あと二百ページほどを残すのみとなりました。
わるい癖で、つい、
うしろの訳者「解説」を開いてしまい、
そろりそろりと読んでみました
ら、
なんとなく予想はしていたものの、
なるほど、そういうことだったのか、と疑問が氷解しました。
それは、
これほどの記憶力と記述力を持つカサノヴァが、
どうして五十歳以降の人生について記さなかったのかの疑問です。
以前ここに引用した箇所にもみられたように、
カサノヴァには明らかに、読者を楽しませよう、さらに笑わせようという意図が見えます。
そして、それは成功していると思います。
しかし、
その天才的な筆力を以てしても、
五十歳以降の人生について、
読者を楽しませることはできないという、
カサノヴァの判断があったことになります。
ただ遠く離れた島国の、六十も半ばを過ぎた人間としては、
勝手な欲張りであることを承知しつつも、
こちらを楽しませなくても、
笑わせてくれなくても、
老境にある感懐を吐露して欲しかった、
そんなふうに思います。
「五十歳以後のことは、もはや悲しいことしか話せませんからね」
とカサノヴァは言うけれど、
それをきちんと書けば、
巧まぬ可笑しみ、面白みは自ずと滲んで現れたのではないかと想像します。
そこまで含んでの「人間喜劇」かなと。
・追はれゆく鬼の背中や日の巡り 野衾