学ぶこころ

 

いにしえの学者は、田を耕し家族を養いながら、三年で一芸に通じ、経の大意を承け、
経文を玩味がんみするのみであったゆえ、
日を要することが少なくて徳を蓄えることが多く、
三十歳で五経が立った――修得できた――のである。
後世、
経と伝はすでに離れそむいて、
博学な者もまた多聞闕疑けつぎの意義を思わない。
そして
かりそめにくだくだしくわずらわしい解釈をして
人の論難を避けることに務め、
そのため便辞巧説をあやつり、
文字の形体を破壊し、
わずか五字の文を説いて二、三万字をも費やすに至った。
後進のものがますますこの風潮を追い、
そのため幼童でありながらすでに一芸を固守し、
白髪の老年に至ってはじめて一家言を言うことができるという次第であり、
習うたことに安んじ、見なかったことを誹謗ひぼうし、
ついにそのままみずからを蔽おおってしまう、
これは学問する者の大弊害である。
(班固[著小竹武夫[訳]『漢書3』ちくま学芸文庫、1998年、p.533)

 

引用文中、「一芸」とは六芸の一。六芸は、詩(『詩経』)、書(『書経』)、礼(『礼記』)、
楽(『楽経』)、易(『易経』)、春秋。
「伝」は、解釈の書。
「多聞闕疑」は、多く聞いて、疑わしきを取り上げないこと。
「便辞巧説」は、たくみなことば、たくみな説。
新井奥邃(あらい おうすい)は「日用常行」すなわち日々の果たすべき務めの大切さ
を説き、
日々の務めを果たしたのちに、
それでも時間があったら本を読みなさい、
という主旨のことを言っていますが、
班固の精神に通じるものであると感じます。

 

・浴びたるを許す許さじ寒椿  野衾

 

許すこころ

 

他の人を心から許すということは、私たちが解放されることです。
私たちの間にある否定的な束縛から人を自由にするのです。
「もうあなたに腹を立ててはいない」
と言うことには、
それ以上のことが含まれています。
つまり、
自らを「侮辱されたもの」であるという重荷からも解き放ちます。
自分を傷つけた人を許さないでいる限り、
その人を一緒に抱え込んでしまい、
もっと悪いことには重い負担としてその人々を引きずってしまうことになるでしょう。
怒りの内に敵に固執し、そうすることで自らを侮辱され、
傷つけられたものとみなすという大きな誘惑がそこにあります。
それゆえ、
許しは他の人を解き放つばかりではなく、
私たち自身をも解き放ちます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.58)

 

侮辱されたと感じて、「ぜったい、ぜ~~~ったい、ゆるすもんかっ!!」
なんてことを思ったり、言ったりしても、
そうそう怒りが持続することはないようです。
個人的にそう思います。
意気が消沈するように、怒りも消沈する。
ちょっと情けない。
でも、
消沈したのに、大事に怒りを持ちつづけようとすると、
怒りを思想信条とする「怒り教」みたいなことになりかねません。
からだに悪そうだし。
じぶんを「傷つけられたものとみなすことに大きな誘惑がある」という洞察は、
「傷ついた癒し人」ナウエンなればこそと思います。
しかし、
許すということは、なかなかむつかしい。
人間業でないかもしれない。
ここに祈りが現実味を帯びてくる根拠がある気がします。

 

・小屋寒し一羽残らず喰はれけり  野衾

 

祈るこころ

 

また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、
会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。
よく言っておく。
彼らはその報いをすでに受けている。
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
(「新約聖書 マタイによる福音書第6章5-6節」聖書協会共同訳『聖書』、2018年)

 

この箇所を読むたびに連想するいくつかのことがありまして、
そのひとつが長谷川町子の『いじわるばあさん』
主人公である伊知割石(いじわるイシ)は、およそ祈りとは程遠いように見えて、
なかなかそうでないかもしれない。
イシさん本人に訊けば、
そんなことがあるもんか、なんて言われかねないけど。
もう一つは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』。
いっぱいおもしろい話があるなかで、
街道で安くておいしい団子屋だったか茶店だったか忘れましたが、
ひとの噂にのぼる店があり、
そこに主人公の長谷川平蔵が犯罪の臭いを嗅ぎつける。
ニンゲンは、百パーセント悪いことはなかなか出来ないものだ、
どこかでバランスを取りたがる、
そんな人間観察、洞察を、
たしか漏らす場面があったと記憶しています。

 

・寒卵利かぬ指もて割りにけり  野衾

 

歌うこころ

 

『書』に「詩は志を言い、歌は言を詠ながくす」とある。
ゆえに哀楽の心が物に感ずるとき、それは歌詠の声となって外にあらわれる。
それを言ことばに表わして誦むのを詩といい、
その声を詠く節づけるのを歌という。
それゆえ古代に採詩の官があり、
王者はそれによって風俗を観、政治の得失を知り、そしてみずから考え正したのであった。
孔子はもっぱら周の詩を採取したが、
上は殷の詩、下は魯の詩をも採取し、都合三百五篇とした。
秦の焚書の禍わざわいに遭いながらも完全に残ったのは、
その諷誦ふうしょうがただ単に竹帛《ちくはく》にだけ残されたのでないからである。
(斑固[著]小竹武夫[訳]『漢書3』ちくま学芸文庫、1998年、p.519)

 

司馬遷の『史記』につづき、電車通勤の行き帰り、班固の『漢書』を読み始めて
しばらく経ちます。
いま読んでいるところは「芸文志」で、
歴史書が扱う時代の図書目録が記されています。
引用した文章中『書』は書経。
『古今和歌集』の「仮名序」ともひびき合い、時空を飛び、広やかな気持ちになります。
秦の焚書坑儒は有名ですが、
焚書の禍いに遭いながらも詩が残ったのは、
その諷誦がただ単に竹簡や布帛にだけ残されたのでないから、
とする班固のもの言いに、
しずかではあるけれど、
歴史家としての反骨の精神が鳴っているように思います。

 

・白濁のなかの青さや蜆汁  野衾

 

恋するこころ

 

『古今和歌集』の1038番は、

 

思ふてふ人の心の隈ごとに立ち隠れつつ見るよしもがな

 

「隈」は「くま」。片桐洋一さんの通釈は、

 

「お前のことを、いとしく思っている」と言うあの人の心の中の、
見つかり難い場所にこっそり入り込み、姿を隠しつつ、
お心がほんとうにそうなっているのか、この目で確かめたいことでありますよ。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(下)』講談社学術文庫、2019年、p.541)

 

千百年以上前の、恋したときの人のこころを歌った歌ですが、
まったく古びていません。
というより、
人間のこころが、千年どころか、万年たっても、
そうそう変るものではない、
ということになるでしょうか。
一昨年十一月に斉藤恵子さんのライフワークである夏目漱石の論稿を編集し、
弊社から出版しましたが、
斉藤さんの快諾を得、
タイトルを『漱石論集こゝろのゆくえ』としました。
漱石の代表作である『こゝろ』が、これからどのように読み継がれていくのか、
それと、
そもそもの人間のこころが、
これからどんなふうに変貌を遂げていくのか、
そのダブルミーニングをタイトルから感じてもらえれば、
と願ってのことでした。
「隈」は、
引用した歌の場合、
「人から見えにくい場所」の意ですが、
もともと、
「川や道の曲がりくねった場所」というのが原義だそうで、
こちらもなかなか味わい深いと思います。
川や道と同じように、
人のこころも真っ直ぐであることはなかなか難しく、
くねくね曲がりくねっていそうです。

 

・どんどの火四大の天を降り来る  野衾

 

こころのあり様

 

私たちが一人ぼっちの寂しさから行動する時、
私たちの行動はいとも簡単に暴力的なものになってしまいます。
多くの暴力が、愛を求めてのことであるというのは、
悲劇です。
一人ぼっちの寂しさから愛を探し求める時、口づけは容易に噛みつくことになり、
抱擁は殴打となり、心にかけて見ることが疑いの目で見ることになり、
聴くことが立ち聞きに、
身を任せることが強姦になってしまいます。
人間の心は愛を切に求めています、
条件や限界、制約のない愛を。
しかしどのような人もそのような愛を与えることは出来ません。
私たちがそのような愛を求める度に、
私たちは暴力の道へと向かってしまうでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.52)

 

むかし、『林檎殺人事件』という変ったタイトルの歌が流行りました。
樹木希林と郷ひろみが、
海賊船の船乗りみたいな衣装を身にまとい、
くるくる踊りながら歌っているのをテレビで見ました。
歌の内容はといえば、
殺人現場にリンゴが落ちていて、
そのリンゴには、がぶりと齧った歯形が付いていた。
捜査員は頭をひねったけれど、
そこにパイプをくわえた探偵が現れ、男の女の愛のもつれだよ、なんてことを言う。
アダムとイブがリンゴを食べてから、跡を絶たない、なんてことを言う。
作詞は阿久悠。
歌のはじまりとおわりは、
「アア、哀しいね、哀しいね」で、
まさに悲劇。
コミカルな歌を、当時のわたしは、変な歌と思って聴いていましたが、
人間のこころのあり様を鋭く突いていた歌であったなぁ
と思います。

 

・太平山雉鳴く空の青さかな  野衾

 

拙句集『暾』の書評

 

ことばについて勉強し考えてきた今の時点での証、とでもいいましょうか、
昨年10月に句集を上梓しました。
季語があり、五・七・五、
十七音に収めていますので、伝統的な有季定型の俳句です。
句集のタイトルは『暾』。
ま~るい朝日が昇るさまを表す語で「とん」と読みます。
書評が『図書新聞』に掲載されました。
評者は、敬愛する中条省平さん。
中条さんと『図書新聞』の担当者の了解を得ましたので、
紹介したいと思います。
コチラです。
中条さんは、学習院大学の先生ですが、
文芸評論をはじめ、映画、音楽、マンガなど、
さまざまな表現行為に関してこれまで鋭い分析を行ってきました。
「鋭さ」は、時に「冷たさ」にもなりがちであるとわたしは考えていますが、
中条さんの書くものは、
スパパパパン!!!
と、いかに鋭くても、
その底に「温かみ」(ときに「可笑しみ」)がある、
と感じています。
これは稀有なことだと思います。
血のかよった世界観が関係しているのでしょう。
拙句集についての書評を読ませていただき、
作者として驚いたのは、
いろいろなところに埋め込みちゃんと隠したつもりで、
果たして気づく人があるかな、
おそらく、
あまり気づかれないのでは、
と想像していたものが、
ことごとく見つけられてしまったことです。
鋭い! なのに温かい!
また頑張ろう! と勇気が湧きます。
とくに「見送りの父母淡き肩に雪」に関する評には舌を巻きました。
雪合戦で思いっきり放った雪の玉を、
胸のところ両手でバシッと受け止めていただいた、
そんな感じ。
ありがとうございました。

 

・褻にもある晴れを愛でるや松の内  野衾