人生の時間

 

庭園で一時間ほど過ごしてから、わたしは管理人の家へいった。
大変な大家族で、娘たちも見すてたものではなかった。
かの女たちと二時間ほど雑談したが、ありがたいことに、みんなフランス語を話してくれた。
わたしは自分の家をすっかり見たかったので、
管理人の妻にくまなく案内してもらった。
それから、自分の住居に帰ってみると、ルデュックが荷物をあけていた。
わたしはかれに、下着類はデュボワ夫人に渡すようにと命じ、
そのあとで手紙を書きにいった。
その部屋は、窓がひとつしかない、北向きのきれいな小室だった。
見晴らしは素晴しく、詩人の心に、さわやかな空気と、
美しい田園の中にあって気持よく耳にふれる、
身にしみるような静けさから生まれた世にも恵まれた詩想をかもし出してくるように思われた。
ある種の喜びの単純さを味わうために、人間は恋をし、
幸せになる必要があるとわたしは感じ、
そしてわが身に満足した。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 3』河出書房新社、
1968年、p.291)

 

事実は小説よりも奇なりを地で行くジャコモ・カサノヴァのまさに疾風怒濤、
めくるめく人生にも、凪のような一日があり、
読んでいてホッとします。
「庭園で一時間ほど過ごし」たという、
その時間、
管理人の娘たちと「二時間ほど雑談した」という、
その時間、
それを回想し書いているのが、
七十歳を超えた現在の時間であることに思いを馳せると、
カサノヴァにとって、
ひりひりするような、生きていることの、恋の味を実感できる瞬間もさることながら、
(だからこそと言うべきかもしれませんが)
時を経、時を経たことによって、
「身にしみるような静けさ」が抜き差しならないものとして、
身に迫ってきたのか、
とも想像されます。
現実を生きている時にはあまり感じなかった意味を、
回想する老境に至り、初めて味わっているのかもしれません。

 

・正月や労を忘れぬ父の指  野衾