許すこころ

 

他の人を心から許すということは、私たちが解放されることです。
私たちの間にある否定的な束縛から人を自由にするのです。
「もうあなたに腹を立ててはいない」
と言うことには、
それ以上のことが含まれています。
つまり、
自らを「侮辱されたもの」であるという重荷からも解き放ちます。
自分を傷つけた人を許さないでいる限り、
その人を一緒に抱え込んでしまい、
もっと悪いことには重い負担としてその人々を引きずってしまうことになるでしょう。
怒りの内に敵に固執し、そうすることで自らを侮辱され、
傷つけられたものとみなすという大きな誘惑がそこにあります。
それゆえ、
許しは他の人を解き放つばかりではなく、
私たち自身をも解き放ちます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.58)

 

侮辱されたと感じて、「ぜったい、ぜ~~~ったい、ゆるすもんかっ!!」
なんてことを思ったり、言ったりしても、
そうそう怒りが持続することはないようです。
個人的にそう思います。
意気が消沈するように、怒りも消沈する。
ちょっと情けない。
でも、
消沈したのに、大事に怒りを持ちつづけようとすると、
怒りを思想信条とする「怒り教」みたいなことになりかねません。
からだに悪そうだし。
じぶんを「傷つけられたものとみなすことに大きな誘惑がある」という洞察は、
「傷ついた癒し人」ナウエンなればこそと思います。
しかし、
許すということは、なかなかむつかしい。
人間業でないかもしれない。
ここに祈りが現実味を帯びてくる根拠がある気がします。

 

・小屋寒し一羽残らず喰はれけり  野衾