本は、一度読んだら終り、という場合が圧倒的に多いのですが、
何度も何度も、
ちいさい子どもが、
好きな絵本をくり返し話者にせがむように、
何度もくり返し読む、読みたくなる本があります。
本というより、
本のなかの文かもしれません。
数は多くないけれど、
そういう本をいくつか持って読んでいるうちに、ハッと気づいた。
それは、「どの文も新しい」ということ。
『論語』でいえば、
「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎《お》かず」または「舎《す》てず」
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」
あるいは「文質彬彬」
などは、
五年前と今年では明らかにちがい、
極端な話をすれば、
きのう読んだのと、きょう読むのとでは、ちょっとちがう、
まるで、
くり返しの多い年老いた親の話を聴くような具合で、
落ち着いた味わいを超え、
抜き差しならなく緊張し集中し、
わたしにとっての意味と位相がちがってきていると感じられます。
『聖書』「コリントの信徒への手紙 二」第三章六節に、
「文字は殺し、霊は生かします」
がある。
すこし前の口語訳聖書では、
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」
印字された文字は、
ただの黒い線、真っ直ぐな線、また曲がった線、しるしでしかない。
辞書を引くと意味が書いてありますから、意味を理解し、
いったんは落ち着く。
ところが、
何度も読んでいるうちに、
辞書的な意味を超え、
きょう、この瞬間のわたしに語りかけていることばと感じられ、緊張し、また謹聴する。
霊が働き、文字が文になる、
そういうふうに感じ始めた感興をことばにすると、
まさに「文字は殺し、霊は生かします」
ふるい本だけでなく、新しい本の文もそうかもしれない。
文字が霊にふれ、
文として立ち上がってくる、
そんなイメージをこのごろ持ちます。
・野良猫の子の潜みをりU字溝 野衾