居直りの一言

 

宣長は「死ほど悲しいことはない」と言う。一言だが、
千万言を費やした哲学書とか人生論、宗教書とかを越えたたった一言が、
死と言うものを言い当てているだろう。
死を取り上げた哲学者はずいぶんいる。ハイデガーも死を考えた哲学者である。
人間の共通する条件は何かというと誰でも、死を免れないことだ。
そこで、
人間の観察はどこに立脚点があるかというと死にあるといって
ハイデガーは死の哲学を展開する。
そういう千万言のことばは死の理解を求めてはくるが、
一方宣長の一言によって全部が空しく思えてくる。
すべてを超えるものが「死ほど悲しいことはない」という一言である。
死を語ったことばは無数にあるが、
一番実感があるのは、
この、いわば居直りの一言ではないか。
そうした居直りのひとつが「もののあわれ」であろう。
「もののあわれ」はそれほど重大な、
『源氏物語』が核とする和歌的なるものの指摘なのである。
(中西進『日本の文化構造』岩波書店、2010年、pp.150-1)

 

たしかになあ。「死ほど悲しいことはない」には、
『存在と時間』を吹き飛ばすほどの破壊力がある、と言えないことはない、
まことに。
でも、
わたしは一方で、
寅さん風に「それを言っちゃあおしめいよ」と思い、
口に出して言いたくなる。
「死ほど悲しいことはない」と公言し、それを味わい、そこに居座る、
あるいは居直ることで満足したくない。
いや、満足できない。
泣き止まぬ赤子の足掻きに似ているかもしれない。
足掻きとは思うけれど、
宣長はもとより、
家持、式部、芭蕉、孔子、老子、荘子、杜甫、李白、
プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ヘルダーリン、ベルクソン、ハイデガー等々、
東西の先人たちの思索と詩作、知恵に耳を傾け、
足掻いたり、逆立ちしたり、
外へ飛び出して雨に打たれたりしてでも、
這いつくばって、
生きる意味を、きょうここに開きたい。

 

・富士の峰ホーム無言の師走かな  野衾

 

ハイデガーにとっての芸術

 

こうした思考がどれほど芸術との近隣関係にあるのかを、
ハイデガーは、
一九三五年に初めて行った講義「芸術作品の起源」において説明している。
彼はそこで履き潰された自分の靴を描いたヴァン・ゴッホの絵
(ハイデガーはそれを農夫の靴と間違って考えている)
を例にとって、
芸術が事物の「どうでもよい平凡なものという性格」を失わせて姿を現わさせる
さまを記述している。
芸術は描写するのではなく、目に見えるようにする。
芸術が作品の中に取り上げるものは、
世界の全体にとって透き通って見える一つの独特の世界を作り上げ、
しかも世界を作り上げるこの行為はとくにそうしたものとして経験可能なものになる。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、pp.436-7)

 

見慣れていて、ふだんの生活の中でとくに意識に上らないものが、
あるとき、ふと、抜き差しならない切実なものに感じられ、
これまで見慣れ、つかい慣れ、知ってきたものとまったく別物に感じられる瞬間というのがあり、
そうなると、
ことばではとても言うことができなくて、
ただだまってその場に立ち尽くすしかない、
そんな時がたまにあります。
ハイデガーの〈存在の明け開け〉は、
そのような事態を指していると思われ、
芸術はそれをあらわに見せてくれると言えそうです。

 

・在りと在る存在の明け聖夜ふる  野衾

 

ハイデガーの〈退屈〉

 

ハイデガーは聴講生たちを大きな空無の中に突き落として、聴講生たちに実存の奥深くの
ざわめきを聴かそうとする。
もはやすべてのものが問題ではなくなる瞬間、それにしがみつき、
あるいは
それをもとに自分を感じることができる世界の内容が考慮に値しないものになる瞬間
を彼は開こうとする。
それは時間が空疎に過ぎて行く瞬間である。
時間には何の内容もなく、
ただそこに時間が純粋に居合わせる。
退屈とは、
時間が決して過ぎて行こうとしないがゆえに過ぎて行くのに気づく瞬間である。
そこでは人は時間を追いやることはできず、
何とか時間を潰すこともできず、
何らかの意味を加えることもできない。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、p.287)

 

こういう時間に突き落とされる恐怖はつねに付きまとっていて、
そこからそこを開いていくところに生きることの根本があるとも感じられ、
そうなると、
瞬間瞬間は、いわば悲しき闘争の場の様相を帯びてきます。
だれかにすがりたくなる
(たとえば親、友だち、先生、医者、牧師、僧侶、自分等々)
けれど、
だれにすがることもできないことを思い知らされ、
愕然とし、
時計ばかりを凝視することになります。
時間って何?
子供を救え!

 

・星の下聖夜の意味を知らずをり  野衾

 

哲学をするということ

 

一九二八年、すでに有名になっていたマルティーン・ハイデガーは、
学生時代に何年か滞在したコンスタンツの神学生寄宿学校のかつての舎監に宛てて
こう書いている。
「おそらく哲学は最も強烈かつ持続的に、
人間がいかに青二才であるかを示すものです。
哲学をするとは、結局のところ、
初心者であるということ以外の何ものでもありません」。
ハイデガーが称えている初心ということにはさまざまな意味が含まれている。
彼は初心の巨匠であろうとする。
ギリシャにおける哲学の始まりに、彼は過ぎ去った未来を探り、
現在においては生のただ中で哲学が新たに生まれて来る地点を見つけ出そうとした。
こうしたことが起こるのは、「気分」においてである。
思考でもって始めると称する哲学を彼は批判する。
実際はそうした哲学は
驚き、不安、心配、好奇心、喜びなどといった「気分」でもって始めているのだと、
ハイデガーは言う。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、p.9)

 

小学生、中学生の頃、理科の授業で人体について説明されると、
へ~、人間の体って、そういうふうに出来ていて、
そんなふうに繋がって動いているんだ、
と、
おもしろがって先生の話を聴いていましたが、
他方で、
当時はうまく言葉にできませんでしたが、違和感を覚えていたように記憶しています。
人間はそういうふうに出来ているかもしれないけれど、
オイ(=わたし。秋田方言)はそうではない。
いまここに居るオイを、そんな理屈で説明しきれるものか。
でも。
でも。
考えてみれば、オイも、人間なんだよなー。
そんなような違和感だったと思います。
きわめて気分の問題であり、
ハイデガー風にいえば、
人生の初心者として、
現存在の不安と戦きに盈たされていたのだと、いま思います。

 

・凩や現存在の足下を  野衾

 

天せいろ

 

午前中来客がありまして、いつもより早めの出社。
打ち合わせの後、窓の外に目をやれば、雨も上がって爽やかな冬の日となっています。
そうだ太宗庵!
ビルを出て、てくてく紅葉坂を下り
「たいそうあん、たいそうあん、なに食べようかな、っと」
揉み手しながら小走りになり、右折し音楽通りへと。
ん!?
いつも数名並んでいるのに、店の前に人が居ない。
これはひょっとして。
店が開くのが11時45分。
オープンと同時に客が店に入り、
それでいま店の前にだれも居なくなっているのではないか。
暖簾を右手でかき上げ中の様子を見ると、
予想的中。
腕時計の針は11時48分を指している。
しばらく外で待つことに。
10分ぐらい待ったでしょうか。
食事を終えた客がひとり出てきたので、入れ替わりに店の中へ。
手指を消毒し、空いている椅子に着席。
「天せいろ。大盛でお願いします」
坂を下りながら、
こころに決めていたのだ。
いまは新そばの時期でもあり、そばの微妙な旨みを味わうには絶好の季節。
わたしはこの店でそばの味を知りました。
そうだ、そうだった。
薄目を開け、そんな記憶を辿っているうちに、
やがて目の前に所望した天せいろ。
さて。
そばからいくか。天ぷらからいくか。
温かいおつゆにしたから、天ぷらからにしよう。
まずは野菜。
レンコンだな。
旨い! 甘い! レンコンの旨みを天ぷらの油が引き出したのか。
と。
そばを少々。
ああ。美味い!
つぎは、かき揚げにしてみるか。
サクッ。サクッ。
ああ、美味い!
ん!?
これは…。むかご、か。むかごだ。ああ、秋が凝縮しているではないかっ!
それから、またそばを。
ズルッ。ズルルッ。
食べ終わって、温かいおつゆをレンゲで空の器に移し、
そばつゆを入れ。
ゴクッ。ふ~。
美味い!
もう一口。さらに一口。しめの一口。
ああ!
ごちそうさまでした。

 

・冬の星いま存在の明け開け  野衾

 

耳を育てる

 

高校の教師をしていたころ、準備する自分がたのしく、
教室の生徒がおもしろいと感じてくれるような授業をつくりたいと念じて、
いろいろ本を読みました。
大勢の人の前で話すことが少なくなった今、
どうなったかといえば、
本を読む時間は、あの頃と同じか、あるいはそれ以上かもしれません。
授業準備とちがうのは、
話をするための読書ではなく、
話を聞くための読書、にどうやらなっていること。
たとえば対談に臨む場合、
相手をしてくださる方が本の著者であれば、
その本を三回読んで、要点をメモし、
こういうことをお聞きしたいというプロットを事前に渡すようにしています。
いわば聞くための読書。
対談でなくても、
相手の話を聞くときに、
体験にもとづく土俵に登り、
体験を拠り所とする耳だけで聞くことも可能ですが、
話される内容に触れ、近接することを扱った本を事前に読んでいると、
理解のあり様が変る気がします。
学者・研究者ということであれば、
なおさらです。
仕事にかぎらず、
プライベートな対話でも、
向き合う相手の価値観の拠ってきたる深処に触れ、
的を外さぬためにも、
読書は有効であると感じます。

 

・冬の朝丘上の家の灯りかな  野衾

 

大地の神秘に根を下ろす

 

ハイデガーの思索は、無神論、あるいは有神論であると早々と決め付けるのは、
誤りであり、
また、神の存在の問題には無関心な哲学であると決め付けるのも、
誤りである。
ハイデガーは、シェリング講義の中で、
「あらゆる哲学は、根源的・本質的な意味において神学である」とし、
「例えば、ニーチェの哲学もまた、
まさに《神は死んだ》という本質的な命題をそのうちで述べた故にこそ、
《神学》なのである」と言い、
全体としての存在者のロゴスの把握のために、
存在の根柢としての神を問うことが、
哲学のあり方なのだと表明してもいるのである。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、pp.443-4)

 

もう無くなっていると思いますが、
わたしが子供のころ、近所に、さほど大きくない沼、というか、堤がありました。
弟を連れ、釣りに出かけたことがあったように記憶しています。
周りは田んぼで、そこだけボカッと、
まるで大地の奥歯が抜けでもしたように、
不思議な印象を与える堤でした。
堤の底はものすごく深くて、
高台にある堤の底は、
坂を下ったところに位置する大きな沼と繋がっている、
というようなことが囁かれていた…。
いや、
明るい広々とした風景のなかにあって、
不思議な光景を湛え、
ひとことも発せぬ堤の印象が、
わたしの勝手な想像に刺激を与えていただけかもしれません。
正確に話そう、書こうと思えば思うほど、
底の知れないものが姿を現してきそうな気がします。

 

・地を擦る葉の音ひそと冬の月  野衾