神を観ること

 

けれども、私たちはその贈り物を望まなければなりません。注意深く、
心の目を醒ましていなければなりません。
ある人々には、時が満ちる体験は劇的にやって来ます。
聖パウロにとっては、
ダマスコへの途上で地面に倒れた時がそうでした(使徒言行録9・3―4)。
けれども、
私たちの内のある人々には、
ささやきの声や背中にそっと触れる優しいそよ風のようにやって来ます(列王記上19・12)
神は私たちすべてを愛しておられます。
そして、
それぞれに最も相応しい仕方で、
私たちみんながそれを身をもって知るようにと望んでおられます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.417)

 

パウロのコンバージョン(回心)として有名なエピソードを取り上げながら、
ナウエンは、
それがだれにでも起こり得るのだ、劇的な形でなくても、
と語っており、
わたしはすぐに、
小野寺功先生の「かたくりの花」のエピソード、
子供のころ、雪を割って咲いていたかたくりの花を見たときの言い知れぬ感動、
を思い出しました。
伝記を読むと、
マザー・テレサや田中正造のコンバージョンは、
パウロに近いところがあるようにも思いますけれども、
圧倒的多数の者にとって、
自然の神秘に触れる瞬間というのは、
ほんのちょっとした、
ややもすれば、
瞬きしているうちに見逃してしまうようなこと、時、かもしれません。
『論語』に、
『詩経』を論じた孔子の「思無邪」(思い、よこしま無し)
のことばが出てきますが、
これも、
生きることの神秘、
それに触れる感動を告げているようです。
ドイツの思想家ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)の「神を観ることについて」
のことばも響いてきます。

 

・木の葉一枚水平にふり来る  野衾