「存在」について

 

ハイデガーは、ある論稿の中で、ヘーゲルの言葉を引用しつつ、
存在について以下のように説明したことがある。
それは、
ある人が店で〈果物〉を買おうとし、店の人は、そのひとにリンゴ、洋ナシ……サクランボ、
ブドウなどの果物を手渡したが、
そのひとは、どうしても〈果物〉を買いたいのだと言い張った、
しかし、
〈果物〉(という普遍的な概念)は店では買えなかった、
というヘーゲルの言葉である。
ハイデガーは、
このように「存在」もまた、それ自体をそのものとして名指すことはできず、
存在の歴史の中で、
「ピュシス、ロゴス、一(ヘン)、イデア、エネルゲイア、実体性、客体性、主体性、
意志、力への意志、意志への意志」といったように
「何らかの特色」を持つものとしてそのつど人間に手渡されてきたのだ、
というのである。
このことはおそらく、
ハイデガー自身の「存在への問い」においてもあてはまるであろう。
彼もまた、「存在」を、さまざまな仕方でロゴスへと齎そうとしているが、
おそらく「奥深い存在」とも呼びうるような「存在」そのものは、
対象化されず、
言葉にも齎されえないというのが、本当のところではないかと思われる。
したがって私たちは、
ハイデガーがどのようにその問いの途上で「存在」について語っているのか
を見ることを通して、
ハイデガーにおける存在とはなにかを、全体として理解するように努めたい。
(上田圭委子『ハイデガーにおける存在と神の問題』アスパラ、2021年、p.276)

 

ことし前半の読書は、
ブルクハルトの『ギリシア文化史』で彩られましたが、
後半は、
小野寺功先生の
日本の神学を求めて』『新版 大地の哲学 三位一体の於てある場所
を編集したこととも関連し、
ハイデガーの言説に目が行くようになっています。
とくに、
先月上梓したわたしの句集のなかにある「かたくりの花」
に注目し、
手紙をくださった小野寺先生の文章に記された先生の子供時代の
いわば「かたくりの花」体験とも呼ぶべき、
一回かぎりの忘れられないエピソード、
それと『萬葉集』にある、
大伴家持が赴任先の越中で詠んだ堅香子《かたかご》の花(=かたくりの花)
が重なり、
あらためて、
ハイデガーの「存在」をわたしのこととして、
わたしのことばで理解したいと思うに至りました。
数年前、
渡邊二郎さんの本をおもしろく、
また緊張して読んだので、
渡邊さんに師事したという上田圭委子さんの本を見つけ、
読み始めたら、
これが圧倒的なおもしろさで迫ってきました。
巻末の著者略歴、「あとがき」を見ると、
上田さんは香川県生まれで、東京大学の農学部林学科卒業となっていますから、
もともと哲学をやろうとしたのではなかったのかもしれません。
訪問介護のパートをしていた時期もあったそうで、
そういう経歴をふくめ、
機会があれば、
お話を伺ってみたいと思います。

 

・玻璃の家丘にひつそり冬紅葉  野衾